ケネス・バーク『歴史への姿勢』 6

 多分、エマーソンの仕事の特質が最も完全な形で表現されているのは「補償」に関するエッセイである。エマーソンが直面した技術的な問題は容易に言いあらわすことができる。「極性」の説を主張することで、善の励ましを受けて悪に立ち向かえる。あらゆる悪には、必ず補償的な善が伴っている。「すべてを失っても、なにかを得る。」悪い政府は、悪の治療に対する抵抗をつくりだす。詐欺師は自分自身を欺す。多くのページを割いて、物理学、生物学、人間の歴史から巧妙に例が引かれる。

 

 「あらゆるものは二重であり、一方が他方に対立している。――売り言葉に買い言葉、目には目を、歯には歯を、血には血を、尺には尺を、愛には愛を――与えよされば与えられん――潤すものは自ら潤される――なにをもたんとするか、と神は言った。代償を支払った後それを取れ――危険を冒さないものはなにも得ることはない――・・・奴隷の首に鎖を巻きつけるなら、もう一方の端には自分の首をつなげ――悪い勧告は勧告者を混乱させる――悪魔は間抜けである。」

 

 しかしこのアンビヴァレンスの理論は不器用な者には任せることができない。もし「あらゆる過剰には欠如があり、あらゆる欠如には過剰が」、そして「あらゆる甘さには酸っぱさが、あらゆる悪には善がある」なら、「なにをしたところで状況に変わりはない・・・あらゆるものには善と悪の二つの側面がある。どんな利益にも税金がつく。満足することを学ぶだけだ」という結論に従わねばならないだろう。

 

 エマーソンは、この難点を魂の超越論的教義を導入することによって回避する。「魂は補償ではなく生命である。魂は存在する。」魂は部分ではないので、対応するものなど存在しない。それは存在であり、存在は善であり全体である。「存在は否定を排した広大な肯定であり、自ら均衡を保ち、あらゆる関係、部分、時間を呑み込んでいる。自然、真理、美徳はそこから流れだす。」この戦略の転換によって、彼は次のように言うことができる。「美徳に科料はないし、知恵に科料はない。それらは存在への付加である。徳のある行動によって私はまさしく存在する。徳のある行動で私は世界につけ加える。混沌と無に征服された砂漠にそれを植えつけ、暗闇が地平線の向こうに後退していくのを見る。」我々は別な形での改良論に出会うのであり、生は調和の取れた宇宙を混沌の領域にまで押し広げ、混沌を調和によって開拓していくことである。その仕掛けは新たでよりよいものを準備する。「我々は古きものの偶像崇拝者であり、我らの内なる天使を通らせることができない」と彼は警告する。ゆっくりと成長していこうとするなら、生の本質は「上へ向かって」いこうとするものである。不幸が生じても、補償があり、我々が亡びないよう利益を得させてもくれる。超越論者として、彼はヘーゲルが発達させ、マルクスが世俗化することを提案した同じ仕掛けの一種を使っている。「ある」レベルにおける善と悪の闘争が激しくなると解決の必要が生じ、その解決は問題を「より高い」レベルに押し上げるのである。