ケネス・バーク『歴史への姿勢』 11

 

 

 

 

第二章 詩的範疇

 

 シンボリズムの構造を解明するためには、多様な文学的範疇を調べてみるのがよく、それぞれの偉大な詩的形式は、各時代の主要因を用いることによって、独自のやり方で心的装置(意味、姿勢、性格)を打ち立てている。

 

 原始的な条件下におけるシンボル適応の典型的な枠組みとして叙事詩から始めることにしよう。高度に「啓蒙化」された時代には『アエイアネス』のような叙事詩の洗練された模倣品がある。しかし、その形式は原始的な、非商業的な条件下で生まれた。故意にホメロスの詩の古風な性質、その背後に感じられるある種のノスタルジアに注目する作家たちがいて、それはあたかも原始的生活の材料はまだ大部分残っていて、新しい者たちが古い者たちをより鋭く評価するに足るものがそこにあるのだと感じ始めたかのようである。

 

 ヴェルギリウスの場合、ホメロスの威光は形式の選択について十分な考慮を払わせた。また、彼はアウグストゥスを称揚するために書いたのでもあって、彼はローマの無干渉の時代からの方向転換を図り、中央にある帝国の権威のもとに政府行政の官僚制を基礎づけ、それが結果的にローマ国家の結晶化を導いた。アウグストゥスの時代以降、職業的な意味における「繁栄」は衰微していった。官僚組織を背景にし、エジプトのような穀倉地帯をもっていたローマ的効率は、多くの物質的富を蓄えることができた。そして、ヘレニズムを通じて完成された農業科学は生産性を増加し、それを維持することを可能にした。しかし、カエサルの勃興の直前に「花開いた」ような個人投資の全盛期は過ぎ去っていた。皇帝のもと、ローマ属州の科料での騎士たちの投機は根本的に抑制された。公的な事業が再び前面に出て来た。帝国の衰退期、次から次へと別の兵士たちがローマで権力を握ったときでさえ、軍隊において前払いというのは、現代の保険会社の下役と同じように規則正しいものだった。兵士になるというのは、結局は一つの売買になり、全体的に大きな危険はなく安定した交易だった。帝国は国境に目に見えない万里の長城をつくり、前線において散発的に、非組織的にかかる圧力に抵抗できるよう国内におけるコミュニケーションのネットワークを完全なものとしたのである。事業は停止に向けてゆっくりと衰弱していき――キケロの時代の成り上がりたちはもはや(ベッロクなら言うであろうように)国家にある「色調」を与えることがなくなり――階級や身分が固定化され規則となった。

 

 この趨勢はアウグストゥスの改革に始まり、ヴェルギリウスは彼の詩人だった。であるから、偉大な詩人にはよくあるように、彼はこの出来事の始まりに鋭い感覚を示すことがあったかもしれない。この解釈によれば、ヴェルギリウス叙事詩の形式を選択したのは、ホメロスの威光があったためばかりではない。叙事詩が商業的な教化が広まる以前の時代に固有のものであり、ヴェルギリウスの書くものが商業的自由の終りを讃美するものである以上、彼の立場はある種それに類似している。

 

 叙事詩は、原始的な条件の下、人間をこうした条件下で「安心させる」ために書かれる。それは戦争での英雄の役割を巨大にすることで戦争の厳しさ(部族の成功の基礎ともなる)を「受け入れる」。そうした巨大化は二つの目的に役立つ。威厳、勇気を「示し広めること」、集団の利益のための個人の犠牲を存在に不可欠のものとし――身分の低い者には、「同一化」の過程によって英雄の価値を分け合うことを可能にする。現実にであれ伝説においてであれ、英雄は危険を冒し死ぬが、他の者はその代理として英雄になることができる(キリスト教のシンボル群の変異体であって、そこでは原罪をもつ者たちが、聖体である教会の一員になることでキリストの完全性を代理として分け合う)。こうした思考様式の社会的価値は、卑下と自己賛美とを共に働かせることが可能なことにある。(伝説の力強い姿と比較して)限界を感じることは自分の評価について現実的な姿勢を与え、代理によって英雄との近さを感じることで自己正当化に必要な卓越性が与えられる。*

 

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 このことは、心理学的な略奪が伝記作家の「暴露」派に完全に忠実であることを示唆しており、そこでは、偉大な伝説的歴史的人物の威厳を破壊することで、自動的に我々は我々自身を破壊するのである。英雄の伝説は、結局、ゲーテショーペンハウアーに言ったこと、「我々は生に注ぎ込んだものしか生から得ることはできないのだ」ということを言っている。我々が貪欲であるなら、大量に注ぎ込んだほうがいい。叙事詩の英雄は人間と神々とを仲介するものであり、両者の性質をもっているので、その神性はジークフリートやアキレスの弱点やキリストの十字架にかかる宿命のような欠点によって一般的に「人間化」(ジェイムズなら「額面どおりの価値」と言うだろう所与の存在)されている。かくして、同一化の過程はより容易になり、個人的な迫害でもあると、いかめしくそれを災厄のしるしであるかのように感じることができる。この傷は幸運なことに現実的な勧告に開かれている――自分自身に欠点を探すよう促し、最終的にそれは断念の姿勢に行き着く(よく調和の取れたシンボル構造をもつとは、個人の限界について一覧をつくる以上のことではない)。

 

*1:*悲劇であれ叙事詩であれ、英雄を非宗教的な力点において解する限り、気取りを免れない危険がある。神のような英雄との同一化が、自分は英雄ではないと悟ることによって価値を減じるときにのみ卑下という要素が生まれる。英雄の神性という宗教的概念がこの価値の軽減を誘うのである。しかし、英雄が完全に世俗的なものである限り、英雄でないものが英雄と完全に同一化することは容易なこととなるだろう。