ケネス・バーク『歴史への姿勢』 12

悲劇

 

 悲劇の断念はこの同じ個人的な限界に基づいている。しかし、悲劇作家の作品に用いられている文化的資材は原始的叙事詩の発生にあったものよりも、より都会的で、複雑で、洗練されている。運命論、讃美、卑下の同じ魔術的思考様式が存在するが、それらはより「啓蒙化された」因果関係の図式に隠されている。ギリシャ悲劇は、商業の個人主義的発達が初期の原始的-集団的構造に強く重ねられたときに開花した。勢力の拡大による恐怖は強く、それは商業が主に「メトイコス」、交易によって利益を得ようとする外国人に任せられていたからである。

 

 交易が発生する以前の人間関係は「ポトラッチ」の心理学に近く、物品は取得よりもむしろでたらめな贈与によって分配されていた。ある姿勢から他の姿勢への転換は「価値の相対化」の基本である。ギリシャの都市において、この姿勢の転換は、「客-友人」の慣行が変わったことにあらわれており、商業が拡がるに従い以前の文化でもっていた意味が混乱していった。訪れた貿易者はその土地の市民の「友人」としてきたときにのみ保護を受ける権利をもっていた。結局、貿易の拡大と共に、その約束事は詭弁になり、著名な市民のなかには一都市分もの「客-友人」として振る舞った者もいる(親密な客との関係に元々あった魅力が、啓蒙的な「量産」によってひろまった非人間的な客あしらいによって抹消されてしまった)。*

 

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 しかしながら、貿易や都市生活の発達に伴う諸関係の複雑化は、裁判所や議会に見られるような弁論を様々な方向に発展させた。法律的な洗練から広範囲にわたる形而上学構造をもつようになり、ついには初期の魔術や宗教の思考様式に科学的な因果関係の概念を押しつけるようになった。この新たな姿勢は表面的にはアリストテレスで最高潮に達したが、潜在的には彼に先立つ偉大な悲劇作家たちに見いだされる。彼らの劇は、原告、弁護人、検事、裁判官を伴った陪審員、それらすべてを兼ね備えた陪審員による複雑な裁判と言える――あるいは、別の言い方をすれば、一つの作品には、罪、判決、贖罪がある。運命という魔術的な概念は残っているが(天の配剤が人間の運命に関わるという神秘的な参与)、それは弁論という新たなものと融合しなければならない。それゆえ、悲劇の出来事はユークリッドの証明や政治的な雄弁のように、科学的な説得力をもつ論理を保っているのである。

 

 事業の個人主義は人間の行為の動機である個人的な野心に対する意識を鋭敏にしたが、偉大な悲劇作家たちは信心深く、正統的、保守的で、そうしたものに対しては「反動的」であった。それゆえ、彼らは高慢や神々への不遜を基本的な罪とし、犯罪と同じ意味合いをもたせることで、悲劇的な両義性をもつものとしてそれを「歓迎」したのだった。*彼らの受容の枠組みは、人に限界を知らせることによって「断念」を勧めるものだった。彼らは、神々からの最初の罰のしるしとして幸運を恐れたブルジョア的考え方によって訓練された現代の心理学者たちにとっては、この姿勢は通常病理をあらわすものと考えられている。

 

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 キャロライン・スパージョンは「マクベス」の大きな部分を占めているのは似合わない衣装の形象だと言っている。似合わない衣装はグロテスクである。それは人間を戯画化するシェイクスピアの違反者がグロテスクな要素で強調されているのは、犯罪に反対する文体上の訓戒的色合いが多くの悲劇に見られる犯罪への共感よりも強いためだろう。崇高化による両義性は、例えば、「野心的な」カエサルに対する違反者であるブルータスやカシウスを扱っているときよりも弱い。マクベスの思考とは魔女たちにある――これら人間以下の存在は彼の主観的状態の劇的客観化である(現代の表現主義の劇作家なら、ストリンドベリの登場人物が壁を通り抜けるように、彼女たちが頭のなかから抜けだすところを見せたかもしれない)。似合わない衣装同様、彼女たちは彼の運命を戯画化している。

*1:*同じような趨勢はエジプトのオシリス主義の「民主化」にもあって、司祭による加持祈祷の販売は、最初はファラオの不死化に限られていたのが、次第にすべての民衆に拡がることで質も落ちた、あるいは、ヨーロッパでは、ストレイチーが『権力への闘争』で観察したように、免償状の販売が最後には商売となった。商業的な合理主義が、自分がそこから発展してきた魔術や宗教と対等の関係を維持しようとすると常に「堕落化」が生じる。

*2:*このことは、ある悲劇作家が「進歩的」なのか「反動的」なのかと問う者に対する部分的な回答となるかもしれない。悲劇は犯罪を扱う――そして確立した価値との戦いがあるために、新たな趨勢は最初は犯罪と感じられるだろう。しかし、悲劇は犯罪を共感をもって扱う。犯罪に対して最終的に罰が宣告されるにしても、我々は彼の違反を自分の違反と感じ、同時にこの違反は文体の崇高さによって威厳のあるものとなる。