ケネス・バーク『歴史への姿勢』 13

喜劇、ユーモア、オード

 

 メレディスが言ったように、喜劇は芸術の最も文明化された形式である。どうしてそれを問題にするのだろうか。良質の喜劇を生みだすことのできる階級は可能な限り幸福である。しかし、自足した村がその文化を休火山の麓で発達させており、その「無意識の」深みでは既に噴火と破滅とが準備されているように、それ自体としては賞賛に値する適合も非常に危険なその後の出来事によって照らしだされることがしばしばある。

 

 その後の歴史が幸福な時代の解釈を与えるというこの劇的イロニーは、枠組みに組み込まれていたものがあらゆる必然的な姿勢を包括するほど広くはなかったことを示唆していると考えられる。全体的な現実のヴィジョンが必要とされるときに、すべての意味のある文化的要因に重要性が与えられるわけではない。階級の関心が解釈の枠組みを歪めるきっかけとなっており、外見上の全体を事実上の部分的なものとして働かせる。階級の関心の組織化から、不可避的に過剰な強調や過小な強調が生じる。好都合な要因は好意的に見られるし、不都合な要因は無視される。思想家が張り渡された綱の上でバランスをとるよう自分自身と読者とを訓練していても、歴史はあらゆる場所に綱を張り巡らしている。それゆえ、あらゆる必然について考えると、ある枠組みの栄光そのものがその枠組みに対する脅威となる。

 

 その立場を枠組みの姿勢によって正確に位置づけることができないような、別の階級が生じてくる限り、「階級道徳」は「文化的遅れ」として働く。枠組みに比較的合った者がその限界をしるしづける強調を行なっている限り、「おかしな姿勢」だと非難される者は「文化的に疎外されて」いる(自分たちの姿勢とは異なる新たな姿勢は、「真実」であるよりも単なる姿勢と感じられる)。例えば、その雇い主に欲せられたサミュエル・ジョンソンの鋭い喜劇的なヒューマニズムはやがてくるロマン主義の意味合いを見損なわせることになった。そして、偉大な芸術は確立された諸規則を乗り越えるのだというロマン主義的主張を始めたポープは、活気ある作家たちにとって確立された趣味の規範を蹂躙することは必然なのだということを考慮することなしに、新たな強調を悪趣味として(誰にとって悪趣味なのか)激しく非難する傾向があった。症候の背後にある原因を見てとれず、症候を非難する大きな便宜を与えることになったとき、枠組みは人を誤らせる。

 

 悲劇同様、喜劇も高慢の危険を警告するが、強調点は犯罪から愚かさに移っている。シェイクスピアの悲劇はメロドラマの方に引きつけられていったが(『オセロー』のような作品に顕著である)、その筋立てには悪党を必要とした。ヘンリー・ジェイムズがプロットには愚者が必要だと言ったとき、本質的に喜劇的な所見を述べている。カエサルの殺害の後プロットの主役となるアントニーは第三のきっかけを示唆している。「良い」登場人物は正当化されうる復讐の動機によって活性化される。

 

 人文啓蒙の進歩は人の行動を悪徳としてではなく間違いとして描くこと以上に進むことはない。人は必然的に間違うものである、あらゆる人間は愚者として行動しなければならないような状況にさらされる、あらゆる洞察にはそれ独自の盲点があるということをつけ加えれば、喜劇を巡る円環は完成し、偉大な悲劇にある謙遜の教えに再び戻ることになる。観客は有利な立場から、劇の登場人物が見られない間違いが働いているのを見る。二つの視点から同時に見ることで劇的イロニーが高められる。知性が知恵を意味するとき(いいものであろうと悪いものであろうと、何らかのものを得る能力を高めるために共同して働く力として知性を見る現代の傾向とは対照的に)、それには重要な要素として恐れ、断念、限界の感覚が必要であることを訓戒しているのである。

 

 喜劇は弁論の複雑さを最大限に必要とする。悲劇のプロットには機械仕掛けの神が常に潜んでおり、出来事に運命的な展開を与えるとともに、古くからの「感応」のパターンによって、人間が自然を擬人化し、その力を自分に味方するもの、あるいは敵するものと感じる。喜劇は弁論の論理的因果性を最高度にまで高め、天上の驚異の助けでプロットを形成したりはせず、それぞれの出来事が与えられた情報の前提から「三段論法的に」導きだされることによって内的な組織化の過程が完成する。喜劇は社会にいる人間を扱うが、悲劇は宇宙的な人間を扱うのである。(この力点は、ダーウィン以後の変化によって最終的にハーディ的な悲劇、自然における人間を扱うものに移ることになる。古典的悲劇では引き金となる力は超人間的だが、ロマン主義自然主義的悲劇では人間内的なものである。)喜劇は本質的に人間的であり、奇癖や弱点を劇化する風俗喜劇で比較的安定した時期を迎えた。しかし、それを劇に限定する必要はない。ベンサムマルクス、ヴェヴレンの最上の部分は高度な喜劇である。

 

 現代の劇では、カワードの『ビター・スウィート』などはその題が喜劇の基本的な両義性を示してはいるが、衰弱は否めない。我々は甘さとともに苦さをとらねばならないのである。劇作家はこの教えをプロットのなかで成熟した形で示すことができず、ヒロインは二人の恋人のどちらかを選ぶことができず、最終的に両方ともとる。シャーベットとケーキのどちらを注文するか決めかねて、彼女はシャーベットケーキを注文する宿命に「従ってしまう」。こうしたおめでたい考え方の「治療的価値」は救いは容易に求められるという芸術的表現を求めている公衆によって評価されることになる。

 

 しかしながら、喜劇とユーモアを分けるのは重要な区別であり、それは芸術形式を「受容の枠組み」として、生に対する「戦略」として考えるときに明らかになる。ユーモアは英雄的なものに対立する。英雄的なものは拡大によって、英雄を彼の直面する状況と同じくらい大きなものにすることによって受容を促し、英雄ではない個人が英雄と同一化することで自らを強めることができるようにする。しかし、ユーモアはこの過程を逆にする。極めて重大な状況とその状況におかれた弱々しい者との間に、状況を矮小化することによってたるみをもたらす。英雄が上方に引き上げるように、ユーモアは下方に引き下げる。それゆえ、状況の間違った測り方をするので、喜劇のように受容の枠組みが完全にうまく働くことはない。この点で、それは感傷に近く、その類縁性が、なぜ著名なコメディアンの多くが(彼らは実際にはユ-モリストである)正反対のものである涙を好む理由を説明してくれる。彼らのいつもの自己防御の方法は「幸福な愚かさ」の姿勢であり、そこでは生の重荷というのは単に記録されないのである。その重要性は失われている。こうした役柄はしばしばジョー・ペナー、グレーシー・アレン、エディー・カントールなどの子供のような声、エド・ウィンの早口、吃音や沈黙によって完成される。

 

 叙事詩、悲劇、喜劇では受容の枠組みが最優先される。ここにホラティウス的オードの精神、現在を楽しめといった姿勢をもつ作品を含めることができ、それは手元にあるどんな僅かな楽しみをもすくい上げ、それで一日を終りにするよう促す。叙情詩は、その個々の構成要素に従って、より広い適用の枠組みに関係づけることができるが、同じ種類に分類される傾向がある。哀歌あるいはエレジーサタイアバーレスク、グロテスクなどに目を向けると、拒絶の要素が前面に出てくる。