ケネス・バーク『歴史への姿勢』 15

 

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

 

諷刺

 

 諷刺は告訴と混同される。というのも、諷刺家は実際には自分自身の内部にある弱さや誘惑を他者のうちに見いだして攻撃するからである。諷刺の投影は簡単に言うと次のように図式化される。AとBには共通に個人的悪徳がある(どの程度が隠れどの程度があらわれているかは異なるが、両者とも盗癖があり、同性愛者で、サディストで、出世主義者等々)。同時に、公的な場では彼らは対立している(法廷で衝突している)。Aは諷刺家である。Bの政治的見解を激しく非難しながら、Aは二人が共有している秘密の悪徳の形象を引き合いに出す。Aはそのことによって自分自身の内部にある悪徳を満足させ罰する。自分の鞭で鞭打っているのだろうか。まさしく。

 

 スイフトユウェナリスのような偉大な諷刺家をこうした戦略的両義性を感じることなしに読むことはできない。我々は彼らのうちに人々の虚栄を焼却することで自らの虚栄を追い払おうとしたサボナローラを感じる。諷刺の熟練者はほとんど不可能に思える目録を作成する。スイフトの「投影」に関する才能は、自身を無慈悲に鞭打つこととなり、結果的に厳しい結果をもたらすこととなった。

 

 今日の完成された諷刺家であるウィンダム・ルイスは、諷刺を「外部からの」取り組みかたと定義した。「内部からなされる外部からなにかに向けての取り組み方」と保留をつけることが許されるなら、我々もそれに同意しよう。ルイスの場合、そうした診断を下す根拠は薄弱だと認めねばならないが、彼の激しい非難は抑圧された死への恐れから、あるいは、別の言葉で言えば、不信心によって挫折させられた宗教性から生じたことを示す徴候が認められる。それはそれだけの価値のあるものに向けられている。

 

 スペンダーの『破壊的要素』には、ルイスが、諷刺は「外部からの」ものであり、良き芸術はすべて諷刺であると主張したときに用いたアナロジーについての注釈がある。ルイスは芸術は「腸」を扱うべきではなく「骨」を扱うべきだと言っている。スペンダーは、「骨」もまた内的なものであり、世界中にあるものからルイスが選んだにしては不適切なものだと言っている。作家が戦略的地点で使う形象の性質に注目することで、彼の動機について手がかりを得ることができるという我々の主張に幾ばくかの正当性があるとすれば、論理的には明らかに支離滅裂なイメージが突然現れたときにそこに意味を見いだすのはより大きな正当性がないだろうか。ルイスは「外側から」観察しようとした――そして非論理的にも観察すべきものとして取り上げたのは内部にあるもの、つまり骨格だった。我々の検証は、彼の背後にある「目-意識」への衝動、「時間-意識」への憎しみを指し示している。というのも「目-意識」は「敵」を投影し、ある隠れ蓑を使ってそれを見ることを可能にするからである。しかし、「時間-意識」は率直に死を受け入れるか、不死性を信じるかどちらかを要求される。さほど根拠のない推測であるが、『ター』の女性を抱きしめる部分では、「頭蓋骨」を引き寄せたと書かれており、この形象の質は異性愛と死との密かなつながりを示唆しているように思われる。*

 

 

*1

 

 実際には、ここには他にも重要な構成要素がある。骨の「反対」が腸だということは、身体の排泄物に対するスイフトの嫌悪に我々を近づける――この嫌悪はエンプソンの『牧歌の諸変奏』に暗示的に引用されている個所に明らかであり、それはまた性にもつながっており、というのも、身体はその二つの機能を同じ通路に置く節約を行なったからである。この愛と汚物とが一緒になっているという感覚は、彼の作品にある信条「精神的で価値のあるあらゆるものは、それとよく似ており、同じ名前をもったはなはだしく嫌悪を催させるパロディーをもっている」ということの本質である。「内部の生」が腸に等しく、「外部の生」が骨格の誤った投影で、男性の女性に対する愛はそれを密かに結び合わせたものなら、恐らく状況と和睦する方法など存在しないだろう。ホイットマンのように走り続けることになるが、誰に「挨拶する」こともなしに走るのである。

 

*1:

*善悪、正確不正確はともかく、権威的シンボルの排除を必然として含む戦略が、もちろん、すべての問題を包み込む必要はない。あらゆるシンボルのもつ総合的性質は「複合的因果関係」の教義を必要とする(シンボルは多くの構成要素を結びつける、という言明は、しばしば「科学的に」次のように、「出来事は多くの異なった原因の集約である」と言いあらわされる)。権威の排除は「象徴的な父親殺し」であり、排除される権威はしばしば「父なる神」であるので、そうした排除は無神論を活気づける。そして、無神論不死性の否定を含んでいる。

 

 さて、死後の生が否定されると、死に対して取りうる態度はある種の公然たる抵抗になる。ダンは、「死、汝死すべし」と挑戦をあらわにしたときに、宗教的なものと世俗的なものとの転回点にいた。彼はいまだ宗教的な不死性を信頼していた――しかし彼の姿勢は、「死すべき生を生きる」ことを欲していたケンピスとは質において異なっている。ダンは宗教を味方に引き入れることで敵に対しているのであり、宗教的な信念で完全に武装すれば死を「敵」とは考えなくなる。むしろ、それは我々の「発達の一段階」である。

 

 それゆえ、公然たる抵抗は官僚機構の混乱(「権利」の奪取)を必ず必要とするものではなく、不死性の否定からでも生じうる。そしてその抵抗を「創造的に」他の領域に移し、密かな「隠喩的拡大」によって、社会的諸関係の扱いに転ずることができる。「死への抵抗」から始めた人間が「隣人への抵抗」で終わることもあり得る。この考えによると、共産主義社会が確立され、受容に力点を置くことが求められる限り、公然的反抗の姿勢(死への反抗に基づいた)は減少していく、という可能性が示唆される。かくして、ロシアでは、神へと回帰する傾向が認められる(多分最初はサンタクロースの形で)。

 

 通常、「科学的」精神はその思考を主題に限定することを好む。それは「判断を宙吊りにする」。「多分、不死性はあるかもしれないし、ないかもしれない。」少なくとも、科学が、「証拠によって証明される」ものだけが正しいという規則にとどまるなら、「科学的精神」にはこうした不可知論的立場を越えることは不可能だろう。無神論(不死性をカテゴリーとして否定すること)は「どれだけ証拠を積み上げても」実体化することのできない信仰の表明である。

 

 不死性の可能性を否定することにとりわけ熱心な人間がいたら(死が絶対的であり「現世的な祈り」なしには「落ちついていられない」かのような)、その熱心さをいぶかしく思っても許される。なぜそんなに強い関心を持っているのか。死後のを恐れているからではないのか。というのも、死と天国のどちらにも可能性があるなら、不死性の否定に夢中になる誘因など存在しないからである。そうした問題には関わらず、そのときが来たら天国に逗留することもあるだろうということで満足し、当座の仕事に戻るだろう。他方、不死性があるという可能性が、彼にとって永久の地獄落ちを含んでいるなら、不死性が存在しないことを「祈る」に足る「十分な感情的根拠」があることになろう。それゆえ、魂の消滅を「証明する」証拠をかき集めている人間を見たら、そうしたある種非実際的で間接的な仕方で、罪を帳消しにしようとしているのだと取ることができる。「多分ない」という人間は「科学的な」簡潔性にとどまっている。しかし、「絶対にない」と言う人間は、不死性に対する恐れのような感情的な必然性に突き動かされている(それは地獄に対する潜在的な恐れから生じることもあり得て、その恐れをいわば間接的に消し去るために存在の可能性を「禁止」しようとする)。

 

 死の恐怖が「緩まる」傾向が、経済的に子供を育てることのできる者たちの間の出生率に影響を与えるという逆説的な可能性もある。「魂の消滅という考え方」は連続性という概念を非人格化する。人は自己の不滅を子孫によって考えることがなく、抽象的な歴史的発達の概念に見いだされるような、より「精神的な」同一化のもと考える。「魂の消滅を主張する者」は運動、主義、階級といった代償のもと生きる(ある意味、ローマストア派が「名声」を通じて不死性を世俗化したのに近い)。子供がいないことによる「象徴的自殺」は、その人間が死につつあるものと考える階級や運動と自身とを同一視するときにより強調される。

 

 我々はここで不死性に「一票投じよう」としているわけではない。不死性の信仰は聖職者のなかでは常に「働いており」、必然的に起る社会的変化の闘士たちを脅かす「道具」として活用される。しかしながら、自由主義が死の「心理学的働き」を歪めたやり方は必然だったと我々は感じる(自由主義が常にあらゆるものの意味を歪めるように)。それはメシアの代わりにポリアンナをおく。そして、あらゆる迂回路を使って「死すべき生」という考えが「敗北主義的」で「逃避的」だと伝えようとする(見事に忘れられているのは、「科学的な啓蒙」が花開いたときに、誠実な芸術家はみな「死すべき生」の巨大な美的記念碑を作り上げたという事実である)。

 

 我々がまた認める必要があるのは、最後まで推し進めると、宗教的な考え方にも「象徴的自殺」の表現が含まれていることである。修道僧たちの「宗教的鍛錬」がそれである(肉体的傾向に拮抗するような「抑止」を助けるものとして「恩寵」を求める)。この傾向は、教会が豊かになる遙か以前から北アフリカテーバイ圏で活発だったが、財産が増えるに従い官僚化されていったのは間違いない(子供のない聖職者が教会の「無言の圧迫感」によって地所を手つかずのまま残しておくように)。子のない聖職者は「精神的」子孫をもち、教会の「子供」であるゆえに、「父」を名乗ることができる。彼は教会の「永遠の」本性によって「地上において不滅」である。この姿勢には現代における世俗的な等価物、「世俗的修道院主義」があり、それは自身を「神」よりもむしろ「歴史」と同一化する。そして、子孫に対する興味の欠如(一般的に収入の問題として合理化されるが)は、死の問題に対する姿勢と関係しているのである。