ケネス・バーク『歴史への姿勢』 16

バーレスク

 

 ルイスは呈示しなかったが外面的性質にもう一つの正当性をつけ加えることができる。世界の状況と芸術の判断基準が、非常に惨めで哀れな孤独な人間を描くことに第一に関わるものなら、作家はあまり大きな親近性をもって彼らを想像しないよう自己防御するのも当然である。というのも、彼らを親近感をもって描くには、彼らと一体にならなければならないからである。ゲーテは作家としてどんな犯罪にも関わったと想像できる能力を備えているとほのめかした。同じように、今日の世界にある多くの恥ずべき立場を想像することのできる作家は、まさにその能力によって、大きな危険にさらされる。そうした登場人物に対する純粋に外面的な取り組み方は彼の身を大いに守ることになろう。想像力によっての奥底まで感じとろうとはせずに、行動を描くだけなら、その表面性は彼の慰めとなろう。

 

 これによってバーレスクの問題に行き着く。ルイスの外面性への訴えかけは諷刺ではなくバーレスクの形(そしてそれに関連した論争や戯画)で実行されるというのが我々の主張である。ここでは、実際、攻撃は外面的である――この理由から、いかに我々が時たまの珍しい一品としてバーレスクを楽しむとしても、それを日常的な主食として選ぼうとする批評家はいないのである。

 

 バーレスクの作家は犠牲者の心理の内側に入ろうなどとはしない。代わりに、外面的な行動を選び、それを「馬鹿馬鹿しい」「論理的帰結」にまで追いつめていく。予定通り、彼は犠牲者の特徴を抹消する。彼は「無情」である。あらゆる「恐らく」を「確実に」に変える。彼の人物をよりよい光のもとに置く「状況の緩和」については故意に考えないようにする。犠牲者は、ゆっくりやればうまくいくような行為をするときには、最高速度でそれをする。速さが必要なときには、ゆっくりと演じる。陽気に、彼は作法を癖に置き換える。バーレスク(論争、戯画)の方法は、党派的という意味のみならず、不完全という意味においても部分的である。であるから、そのなかに調和の取れた枠組みをもっていない。我々自身がそれを受け入れる方法をつくりだすことによってのみ、それを知恵として用いることができる。それが「価値を減じている」ものと同等であっては駄目で、より大きな存在でなければならない。

 

 大量に出回った初期のリベラルなパンフレットは、そうした様式のものだった。実際、自由を強調する古典的なリベラル擁護の基礎にあるのは、バーレスクの本質をしらふで実行することにある。自由を強調し、制限つきでそれを密輸入しようとする。魅力があり、戦略的にも利点がある「権利」を主張し、その両義性、「権利」はその不愉快な裏返しである「義務」や「責任」を必要とすることには目を向けようとしない。

 

 フランス革命のとき、「権利章典」が発布されると、それに合わせて「義務章典」も発布されるべきだと提議した議員がいた。提案は大多数によって否決された。ここに働いているのは悲劇や喜劇の本質ではなく、バーレスクの本質である。

 

 理論上は十全なものだった中世の理論体系は部分的にしか働かなかったので、部分的反定立が生じることになった。しかし、このバーレスク的な力点の置き方は今日の我々をも悩ませており、ジョン・デューイのような自由主義者が、古典的な自由主義を踏襲し、集団的な枠組みは権利と義務との両義性の強調が必要とされるのに(それは制限の公式的な認可を必要とする)、それなしに集団的要素への訴えかけを導入しようとするのである。自由主義の一面的な体系を擁護し守ろうとする似たような望みは、南部の農家に見られるもので、彼らは個人の財産は譲渡することなしに奴隷を「自由」にしたがっており、ヨーロッパにおける解放の歴史が自由と財産譲渡との切り離せない関係を示していることを無視している。農奴を土地に「縛りつける」封建主義は、また土地を農奴に縛りつけており、「義務」と「原理」の釣合は慣習によって守られていた。自由主義の革命は農奴を「義務」から解放することで、「権利」からも切り離してしまったのである。それゆえ、多数の人々にとって「自由」は「追い立て」でしかなかった。逆に言えば、それに見合った義務を果たさねばなにかを「取り戻す」ことはできない。「自由」とは切りつめられた概念であり、人間関係の意図されぬ戯画である。それゆえ、社会組織をそれだけで測ろうとする自由主義者は、幻滅するに違いない。彼は自分の理想がこの世界には高級すぎることを見いだすこととなろう。*

 

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*1:*意味深いことに、ルイスの産業別労働組合会議の理論家は、所有関係の両義的な考え方をアメリカに再導入している。大ざっぱに言うと、次のようになる。労働者の責任を認めることから始め、責任にはそれにあった権利があると主張される。そうした考え方に刺激を受けて、ある経済学者が最近新聞に次のように書いた。「労働はその技術に所有権をもつ、所有者は仕事に権利を、投資は取得に関心をもつ。」財産と所有の概念がこのように拡がり、それを維持する制度ができると、古典的な対等の個人所有は自動的に消滅する――ちょうどシェーンベルグ常に転調していく作曲をすることで、音楽から転調を消滅させた具合にである。