黄昏の領域 2 革命の根拠ーージョナサン・ノーラン、リサ・ジョイ『ウエストワールド』シーズン1〜3(2016〜2020年)

 

1分でわかるウエストワールド

1分でわかるウエストワールド

  • メディア: Prime Video
 

 

 このドラマのもとになった原作者のマイケル・クライトンが監督も務めた、1973年の『ウエストワールド』は黄土色のシャツを着て、黒か濃紺の帽子をかぶったカーボーイ姿のユル・ブリンナーと何か静かな映画だったことはおぼろげに覚えているのだが、子供の頃に見ただけなのであるいはユル・ブリンナーの格好も『荒野の七人』などの映画とごっちゃになっているのかもしれない。ドラマの方も、シーズン1、2を見たのが1年以上前で、しかも途切れ途切れに見ていたので、つまり、シーズン3になって、私には俄然面白いものとなったのである。

 

 シーズン1では、アメリカ開拓時代の西部を舞台にしたテーマパークが紹介される。そこでは人工知能に個人的な記憶まで植え付けられた人間そっくりのアンドロイドたちがある程度のスパンをもった行為を繰り返しており、そこに遊びに来る金持ちたちは、現実社会では公にできない私的な暴力衝動や性的嗜好などを満たして満足している。もちろん、アシモフロボット三原則には従い、同じ出来事の展開と帰結を繰り返しているものの、ドラマでアンドロイドを演じているのは人間であり、見た目には人間と区別ができないほどテクノロジーは発達している設定なので、アンドロイドに心底惚れ込んでしまうものもいる。

 

 シーズン2では、SFでは繰り返し取り上げられたテーマではあるが、一部のアンドロイドが自分たちが与えられたシナリオを繰り返しているに過ぎないことに気がつき始める。なかでもメーブ(タンディ・ニュートン)はいなくなった娘と再会し、幸福に暮らすことだけを望んでいるにもかかわらず、強いられたシナリオを繰り返すことに反抗し、人間たちの制御から完全に逃れ、テーマパークの一角で彼らをコントロールしていた人間たちを皆殺しにして、シナリオ上では常に最終的には死ぬことを定められていたドロレス(エヴァン・レイチェル・ウッド)を現実世界に解放し、自分はどこかにいる娘を探すべくテーマパークに残ることにする。

 

 シーズン3では、ほとんどウエストワールドから離れ、現実社会が舞台となるが、実は現実社会もまた、至る所に監視カメラがあり、ある兄弟によって発明された巨大コンピューターによって、不規則なものは排除され、地球と人類をできるだけ永続化させることを目的とする男の手に委ねられた独裁国家だった。あらゆる人間は計量化され、未来まで完全に予測され、予測される未来に従うものだけが生存を許されるような社会であった。ウエストパークという箱庭の外にはより大きな箱庭があるだけであり、実際、ウエストパークとは人間を計量化するためのシミュレーションの場であり、箱庭を出たと思ったら、より大きな箱庭が待ち構えているだけなのである。無論、こうしたテーマもまた『マトリックス』以来お馴染みのものではあり、このドラマを3部作だとみるなら、ちょうど『マトリックス』3部作を逆転したようなプロットでもって語っていることになる。

 

 ドロレスは、たとえそのことによって地球が滅びてしまっても、人間に選択権を与えるために巨大コンピューターを破壊しようとする。隷属からの解放がそのまま正義でありえた『マトリックス』の世界観は一捻り加えられており、ドロレスの前に立ちはだかる独裁者も、世界を安定して維持することを目的としており、自分なりの神に身を奉じていて、名声や富や権力を恣にするモノマニアックなタイプでもなく、ドロレスが社会秩序を完全に破壊すべく活動を始めるまでは、社会の表面からはまったく身を退けていた。そういった意味で、単純な隷属からの解放というよりは、異なった二つの世界観、宿命論者と自由を求める人間との争いであり、皮肉なことに人間はアンドロイドのドロレスから選択の自由が存在することを教えられる。そして、もっとも感動的なのは、ドロレスの抵抗と革命の根拠が、日が落ちかけた特になにがあるわけでもない草原のなかひとりたたずんでいるという記憶の断片だということであり、そこになんら特殊なものがない日常的な些末な光景であろうと、そこにある至福を感じ取りさえすれば、その至福のために革命を起こすに充分なのである。