ケネス・バーク『歴史への姿勢』 18

修道院制度と変移

 

 修道院制度は変移的な思考の表現に特別な位置を占めている。修道院制度が誠実なものであり、神権政治のビジネスマンたちの一機会までに堕落していなかったときには、危機的な地点(つまり、変移の地点)において仲間を請じ入れた。こうした苦悩は、公然たる、あるいは象徴的な去勢に行き着く自己処罰の思考を通常含んでいる。危機をやり過ごすことによって、そうした気分は自然に軽減されるだろう――しかし、修道院制度は、危機を引き延ばすことによってそうした心性を官僚化する。変移を固定化し、移ろいゆく状態を永続的なものとする。マホメットの棺のように天と地の間に宙吊りにされ、ここでも向こうでもないものに直面させられる。そして向こうの名によってこことして組織化される。二つの世界の間に立つ人間を見いだすことで、この中間的な状態でできあがった世界が与えられる。そして、精神的な特徴は、生活のための集団的な技術によって物質的な基盤を与えられているので(「想像的な」要素は経済的な体制によって「官僚化」される)、「グロテスク」は慣習的な規範となり、「自然に」なる。主観的な状態は公的な体制、社会内社会として具体化される。そして、この公的な要素によって、元々の個人的な要素は社会的に克服されうるものとなる。彼らはこうした物質的、客観的な生の手がかりをルターに求めており、彼は、二つの世界の二律背反は、全世界を修道院化することで解決される、と提案したと言われている。

 

 ロシアの来るべき発展は、二つの世界という感覚が社会的な原因のみからくるのか、人間の「ガラスのような本質」に備わった主観的な二元論から発するのか観察する機会を与えてくれるだろう。いまのところ、遠く離れた北極地帯を実際的な活動の拠点として選んだロシア人のなかに本来備わった二元論のあらわれを見てとることができる。早晩、こうした人々にとって、科学の心理学は宗教の心理学の新たな装いをした写しでしかないことが見いだされるかもしれない――そして、中世的な価値の枠組みに従っている教会の人間は、市場から離れて人類の善のために祈り、厳格な探求者たちも離れたところから仲間の利益を研究し、調査することになるかもしれない。

 

 合衆国のような完全に資本主義化した国では、科学者たちが団体として団結し、自分たちの利益のために発見を商品化することに対して抵抗する傾向にある。この観察は、工場技術者一般、給料を貯め込むことにしか関心がない会社の番犬には当てはまらず、彼らに応用されると、枢要な科学的発見の驚くべきデトロイトの工場の無機的な効率やニュー・ヨークの街路の交通渋滞が生みだす騒音と悪臭に変わってしまう。しかし、想像力豊かな人間の手にかかると、でたらめなものから基礎的な発明が形づくられる。彼らは悲劇的な畏怖の念でもって、いやでもあらが見えてしまうようであり――セザンヌのように、画布を捨てて先に進みたいのである。

 

 情愛の念さえ資本化し、量的な対価(離婚の際の定額の扶助料やセールスマンが顧客を開拓するのに親切を心がけるような場合)を求めようとするような社会で、才能で「儲ける」ことにためらいを感じ、それと関係して、純粋な科学者は自分の考えを他人が使えるようにしておくべきだとする感情があるのは、初期の宗教において「貧しき教会」の利益が理論化されたのとアナロジーの関係にある。プロテスタンティズムの発生において、真面目な人々は、教会は地上の富を抛棄するべきだと提案した。キリストは貧しかった――「キリストの肉体」である教会も貧しくあるべきである。教会の莫大な物質的富は反事業的であるはずのものに事業の組織を持ちこみ、教皇にして自分の歳入をイタリアの銀行に投資しているという事実を見ると、この考えは価値がある(トミストの金貸しの禁止は、法的な詭弁によって放縦を許すまでに拡大され、初期の枠組みのなかに形式的に保たれることになった)。この堕落が行き渡り、カルヴィンがゲームのルールを変えることによって新たな道徳を生みだすに至らない時期には(教会によって禁止されていることは、面子が立つようにしさえすれば許され、その欺瞞は最終的に腐敗へと高まった)、異端者は教会は飼葉桶のなかの幼児のキリストと同じほどつつましいものであるべきだと主張し始めていた。しかしながら、こうした敬虔な教義もまた資本化されうることがやがて明らかとなった。「貧しい教会」は結局、組織的な努力によって豊かな個人と同等になり――農夫ピアズが土に認めた道徳的価値、神秘的なヴィジョンからロックフェラーやフォードの個人的な財産の蓄積に徐々に進んでいったのである。我々はここでは単純に、「貧しき科学」の教義が「貧しき教会」の教義に匹敵するものだとしたが、同様の過程によって、本質的には非資本主義的な洞察が、資本主義の目的を助けるものとなっている。

 

 力、復讐、政治的強制(「説得」)の哲学は、修道院的解決の裏返しであるように思える。そこでは、「二つの世界」に伴う罪悪感は、修道院のように悔恨の儀式によってではなく、「ギャングの道徳」に見られるようなあからさまな悔恨の廃棄によって解決される。

 

 「ギャングの道徳」は次のように生じると想像される。正統的な価値ではもはやいまの状況を扱うのに適切ではない。その不適切さは個々人の「追い立て」にあらわれている(その規範を受け入れる努力をすることができない、あるいは望まないために精神的そして/あるいは物質的利益から追いやられている)。この追い立ては個人の精神に否定主義となってあらわれる――否定主義的な姿勢は、「全てか無かの規則」に従い、僅かのことを拒否するときにも多くのことを拒否する傾向にあり、正当の擁護者(教会のようなものか、あるいはその世俗版である教育者や出版社)に対する激しい非難によって拍車がかかる。個々人は、最終的に、自分たちの集団をつくることでこの罪の感覚を「超越する」ことができる。この一党、新たな集団は以前否定的であったものを肯定的なものに変え――その価値によって個々人の逸脱(正統的な枠組みからの)は「正当化」される。

 

 かくして、「ギャングの道徳」は「セクト」の「ルンペンプロレタリアート的」形式である。マルクスの「階級道徳」は同じ過程に威厳が加わったもので、後にくるよりよき世界での仲間として、個人の精神を組織化し、現在の不完全な世界に向かおうとする。しかし、社会主義国家の確立と共にすべての償却の日がくるまでは、それは本質的に現実主義的というよりは理想的である。初期の福音主義的な教会のように、それは彼岸をもっていまここと対面している。

 

 それが組織化されるに従い、修道院的な布置とは反対の布置が認められる。その機構がすべての必要に従い完成すると、それが「告げる本質」は不透明になる。修道院制度の場合、芸術家が自分の想像的なヴィジョンを客観的社会的な産物として「機構化する」ように、「精神的なもの」が「物質的」に矯正されたときに不透明さが生じた。そして、世俗的な型では、「物質的なもの」が「精神的な」矯正を遂げる。かくして、運動の元々は暴力、復讐、強迫といった否定的な意味合いをもっていたものが、「友愛」、「党規律」、「団結」といった肯定的なものに発展し、共同事業に必要な博愛心を回復させることになりうる。

 

 要約しよう。修道院制度は「精神性」をもって始まり、人間の様々な必要を「満たしていく」過程で「物質的な」組織となった。マルクス主義者の変移の扱いにおいては、「階級道徳」は物質性をもって始まり、様々な必要を満たしていく過程で「精神的な」組織、あるいは「意識」に達する。

 

 我々が諸動機を純粋に「暴露的」な言葉で解明するのに対して行なう抵抗は、「団結」といった動機を「暴露」しようとする思想家のことを想像してみるときに明らかになる。まったく利己的な目的でそうした語を「利用」できるのは間違いない――しかし、「団結」のあらゆる行為がそうした光のもと解釈されると、デモクリトスの原子論が神々を存在から追い出すことによって完成したように、「現実」を存在から消滅させることになろう。そして、それを現実だと考えるものは馬鹿でしかなかろう。この考えのもと協働する者たちは、動機の「婉曲的な」性格をそのまま残しておかなければならない。そして、それに従って諸動機の語彙を枠組みしなければならない。しかしながら、「つけ込んで利用する」ことが「全品売り払う」ことと同一視されるような「称讃による隠蔽」があり得るので、婉曲語法だけでは十分ではなかろう。喜劇的な両面価値の供給源がなければ、人間の潜在能力を全体において測る準備ができていないのである。