ケネス・バーク『歴史への姿勢』 20

 

ヘーシオドス 仕事と日 (岩波文庫)

ヘーシオドス 仕事と日 (岩波文庫)

 

 

ヘシオドスの教訓的「超越」

 

 この古ギリシャ詩人の挽歌は、ホメロスの「甘美な空気」の反面である。ホメロスの「受容的」リアリズムと対照的に、ヘシオドスのリアリズムは「告発された」類のものである。あるいは「補償的」である。ヘシオドスは自然を愛しているが、それを「所有する」人間は好まず、貧困に脅かされ、もっている僅かなものでなんとかしている人間を好んでいるようである。そこで、彼は彼らの「正体を明かす」神々についてありのままに描き、哀調に満ちた享楽を『仕事と日々』の「告発的」で「補償的」なリアリズムで表現した。

 

 ヘシオドスは弟と喧嘩していた。ヘシオドスは弟が自分を虐待していると感じていた。ヘシオドスはそれを許そうと試みる。つまり、喧嘩は兄弟の紐帯を「否定」することとなった――しかし、エリオットが(『寺院の殺人』で)行なったような細心の注意をみせるヘシオドスは、「否定を否定」しようとする。彼はより広いより精妙な視点をとることで、最初にあった憤りを「超越」し、それを重要ではない出来事とした。かくして、ヘシオドスは復讐への単純な欲望から自分自身を「浄化した」のだろう。単に憎しみを抑圧したのではなく、それを乗り越えたのである。要するに、弟が自ら招いた破産の後、新たな共同関係を築き、もっときちんとした条項で契約するつもりなら、彼は過去を帳消しにし、貸し借りをなしにしたいと思っている。しかしながら、この新たな契約にはホッブスが極度に忌み嫌った考え方、「今日は私で、明日は君」的な要素が存在する。これは一方通行であり、ヘシオドスの側の愛情と許しが表明されているだけで、弟の側でそれを受け入れることによって始めて双方向の交流となろう。

 

 この点において、ヘシオドスが「気分がよくなったのを感じ」、愛情を回復できたのは間違いない。卑しい人間の身であるが、「神々に近づき」、卓越し外側に立つ感覚、「神のような」自由を楽しんだに違いない。そして、前に述べたように、繁栄は神の喜びの目に見える証拠であるから(後にプロテスタントによって個人の事業が重視されるようになる)、ヘシオドスは道徳的な向上に物質的な結果が伴うのを見守っていた。

 

 代わりに起こったのは皮肉な結果だった。弟は相変わらず協調姿勢をとろうとはしない。ヘシオドスは個人的な革命を成し遂げ、(コージブスキーなら言うであろうように)「より高度な抽象のレベル」における弟との和解を用意していたのだが――弟はもとのままだった。

 

 危機である。ヘシオドスはより過酷な視点をとり、超越し、「浄化する」ことで、弟の過去の不正だけでなく、現在も続く不正まで許すべきなのだろうか。あるいは、ヘシオドスは「動きを止める」のであろうか。「螺旋状に上昇」しようとするのをやめ、現状にとどまり、祈りを非難に裏返せばいいのだろうか。いくら牧歌的気質をもっていたとしても、卑しいヘシオドスはキリストではない。別の頬を差しだすことはできないのである(恐らく窮境にいるので、経済的な圧迫が不寛容の度合いを増しているだろう)。彼の心はこの第二のレベルで組織化され、官僚化される。それ以上の超越を試みることなく、このレベルの「現金価値」がどれほど限られたものであろうが、そこを開拓しようとする。

 

 戦いの焦点の転換。最初は、ヘシオドスは全霊を傾けて復讐に向かうことはできなかった、というのも、彼が到達したレベルは復讐を単純に信じることができないほど複雑なものだったからである。であるから、弟の無反応によって復讐の念が湧いたとしても、復讐は弟に対するばかりでなく、自分自身に対してもなされることとなる。「内転」――肉体の悪魔、「内なる敵」が問題となる。二方面での戦いであり、実際には、経済的圧迫が続いているのだから三方面での戦いである。

 

 どうすべきだろうか。ヘシオドスはまずい状況にある。壊れてしまう。落胆の瞬間、自分の複雑な配慮の全てに怒りを抱く。自分の「方法」に向き直る。彼の場合その完全な達成であるEntsagenに達しなかった超越の方法に怒りを抱く。そして、徹底的にする性格であり、良心的でもあるので、問題の根に向かう。超越的な過程の究極的な凝結である神々を捨てることになる。

 

 我々が得るのは、宇宙創造神話の解体者としてのヘシオドスである。その過程を徹底的に恨み、解体する。そして、無神論と挽歌を選択することとなろう。

 

 だが、他によいものがないのでという理屈は利用できる。彼の否定は積極的な面がある。彼は自然主義仕事を「利用」できる。仕事は罪の贖いのようなものとされていた。それで螺旋状に超越していく道徳的成長を邪魔する許しがたい罪の負債を払うのである。労役は物質的債務の支払いに役立つものだと仮定される(それゆえ、道徳的と物質的圧迫を同時に和らげる「総合的な」働きをする)。そして、自然主義は、彼がそれ以上沈むことのできないレベルでの満足を与えてくれる。そこで得た蕾を味わったり、それに似た感覚を使うことで、彼はより控えめで、面目を保っていないほどではあるが、ホラティウスの「現在を楽しめ」的な姿勢を得る。しかし、農夫として彼は自然と共に働いているので、自然は彼の労役の悔悛的な側面と結びついている。それゆえ、彼は自然を享受するだけでなく、それによって苦しむのである。

 

 結論として、彼の性格を数え上げてみよう。勤勉、不平家、恨みっぽく、恨みっぽいことを恨んでもいる、敬虔、自由な考え方、楽しみと苦しみとを同時にもつ――これら全てが道徳的に、教訓的に表現されている。