ケネス・バーク『歴史への姿勢』 23

第三章 受容の枠組みの運命

 

 遊び、愛、戦争、仕事――これらは人間が夢中になるものである。それら全てを一緒にし、それぞれの分担を「割り当てる」のが」宗教で、超越と同じような役割を果たす。

 

 矛盾に直面する者がいるとする。矛盾が解決可能なら、それを解決するよう行動しよう。それが解決できないものであるとき、それを「受け入れる」ことができるような詩的概念的形象の力を借りて、象徴的に「より高次の総合」を立てることになる。かくして、トミスムは所有権を巡るある種の重要な矛盾を解決不可能なものとし、統一を目指す姿勢(論理学、儀式、経済によって裏打ちされた)を体系化することで、対立の頂点において総合を生みだすような一連の超越的な橋、詩的批評的虚構を作り上げた。マルクスは同じ所有権の矛盾を解決可能なものと定義した。それゆえ彼の象徴的超越のやり方はまた異なった「司教風の独断」があらわれている(歴史に総合の働きを認めることに基づく)。それぞれの枠組みが、それぞれの境界線の引き方に見合った「行動」を登録している。

 

 そうした枠組みから、我々は人間の動機を図式化する際の語彙を引きだしている。我々は自分の姿勢に則って自己を形成し、他人を判断する(協調したり反目したりする)ので、動機についての理論には行動のプログラムが含まれている。

 

 動機についての超自然的な図式は、社会批判を誤った方角に導き、功利主義的関心を「称讃的な覆い」によって隠すことになる。しかし、純然たる「暴露的な」動機に基づく対立の図式は、功利的な動機を至る所に見いだすことになり、共同作業を困難にする。解釈の「暴露的な」枠組みは、「下方への超越」という巨大な事業となり、論争的で、分解をもたらす目的のためにはいいが、仲間を見張っていつ「売り払い」、どう「もうける」かの機会ばかり狙う馬鹿をつくりだすことにもなろう。

 

 与えられた歴史的状況を「利用する」様々なやり方がある。もし聴衆が、友人を殺すのは悪いことだと信じているなら、詩人は、シェイクスピアがブルータスとシーザーの関係を巧妙に描いたときのように、その信念を「利用する」ことができる。恐らく、中世のモラリストは、さほどの巧妙さもなく、権威に対する一般的な信頼を「利用し」、身分の順列については触れぬまま身分についての哲学を呈示した。従って、ある語の使用について、我々の信用を「利用する」詩人のやり方と詐欺師のやり方があるのだということが想像されれば、我々が行なった動機の「暴露的な」(論争的、バーレスク)図式と喜劇的な両義性のある動機との区別を理解されよう。戯画の方法は社会の複雑さを十分に理解させてくれはしない――それは我々の行動のプログラムを逸らし、同一化によって自分たちを操っている者に恥をかかせ、シニカルな自己本位の利益追求を政治の論理だとする。

 

 しかし、いったん喜劇の但し書きが加わると、資本主義の用語は、社会過程の明瞭な単純化として注目すべきものとなる。学者たちが幼児心理学、異常心理学、原始心理学、動物心理学に関わり、実験室の単純化された条件のもと人間の複雑さを図式化する独りよがりの用語を発明している間、我々は最も独創的で示唆的な言葉、資本家の行動に関わる言葉を無視してきたのである。それは起源においては集合的で、心的物質的要因の「弁証法的な」相互作用から生じた。以前には超自然的な意味で用いられていた概念の等価物を人間的、社会的な領域に与えるという意味で、最良の場合それは喜劇的であった。かくして、「摂理」は「利益のための投資」となった。「義認」の過程は、「広告」、「販売的手腕」、「成功」という単純な形をとった。道徳と功利性との密接な関係は「サービス主義」において明らかになった。背信は、契約の法的な操作においてあらわになる。持ち株会社の成長に従い、人間が脳を取り去った蛙のように振る舞うことはあり得ず、総合的な傾向のあることが明らかになった。「キリストの身体」である教会の成員が投票権のない株主でしかなくなったとき、集合的な同一性そのものが非実際的な神秘主義として刈り取られたのである。等々であり、形態的な並行関係はいくらでもあげることができる。この領域を手つかずのまま残し、その「手がかり」を借りないのは文化的な破壊主義だろう。しかし、真にそれらを喜劇的に使用するには、「暴露的な」やり方に限ることはできない。広告の方法は詩の方法についての我々の理解を助けてくれるかもしれないが、デモクリトスの原子が神々の威厳を消滅させたように、詩の威厳を「消滅」させるものではない。喜劇の両義性の使用は、無差別な婉曲語法とは異なる唯一の選択として「暴露」を保証するのではなかろう。

 

 純粋に暴露的な性質が行き渡るに従い、喜劇の博愛的な性格が少なくなる。そのとき、「精算」への誘いかけが、「売り払う」ことへの誘いかけと同じことになる。そうした動機の図式を吹きこまれた人間は、実際に売り払っても、売り払うことができなくても、苦々しい気分を味わうだろう。彼の行なう諸動機への非難、人間全般に対する告発には、自己告発が含まれている。

 

 マルクスは、動機づけの功利的な理論に、この原子論的、分解に向かう特徴を感じていた。ベンサムを擁護すると、彼は「悪徳」の上に「美徳」の基礎をおく古くからの自由主義の詭計に挑戦している。その戦略は次のようなものである。私利私欲は至る所にあり、利他主義といえど、下方への超越によって、自己愛の一種と解釈することができるので、美徳をこの偏在するものに基礎づけようとするなら、実際しっかりとした土台を得ることになる。

 

 マルクスの集団におかれた力点は、個人のふるまいはその集団の必要に応じたものなので、自己犠牲の可能性をも導き入れる。マルクスは集団における働きとして英雄の可能性を復活させており、そうした可能性によって個人の価値は高められる。同じような姿勢は、少なくともカーライルによって「豚小屋の哲学」に対立するものと解釈された功利主義にも密かに持ちこまれうる。

 

 既に、我々の見るところマルクス主義の語彙が軽んじている心理学的な問題についてはドストエフスキーとの関連で論じた。つまりこうである。現在の対立矛盾に直面した詩人の心には既に始めから総合された未来が感じられているのではないだろうか。法廷弁護士としてのマルクスの図式では、この混乱は追い払うことができる。彼の合理的に整った枠組みでは、未来の「階級なき」社会の泰平な規範と、いまここにある「階級闘争」の単純さとをごっちゃにする必要はない。彼は調停の仕事を歴史的過程だけに所属させているように思える。しかし、この調停が「歴史」ではなく、民衆によって為されると、鋭い階級の境界は消え去る方向に向かうだろう。

 

 というのも、この調停は特に政治家たちによってなされ、彼らの第一の責務とは、党の権力を維持することだからである。政治活動に出資している雇い主、富裕階級に借りがあるのは確かである。できるだけ早くその借りを返そうとするだろう。しかし、ここにはある種の矛盾があって、党はを得なければならず、ある程度大衆に譲歩しない限り、充分な票を獲ることはできないのである。それゆえ、党は、ある程度は財政上の支持者にとって、便宜を図ってくれる(失業保険、労働条件の改善、仕事上の不公正の是正のような)よい投資対象だが、支持者たちの「理想」を充分に満足させるものではない。こうした利権を与え続けないと、そうした支持者のよき投資対象として永久に票を保ち続けることはできないだろう。こうして押し引きが続けられる――ブルジョア民主主義では、富裕層の利害にそった政党の協力は決して完全なものとなることはないだろう。雇い主よりも党に第一に忠誠を誓う政治家によって調停が行なわれる限り、「歴史」は増大する「対立矛盾」から「新たな総合」を生みだすことができない。しかしながら、政党は、不承不承ではあっても、自ら「改革」を受け入れるか、対立者が導入する改革を受け入れねばならない。そして、そうした改革が民衆の大多数をなだめ静める限り、「その日」は先延ばしされる。

 

 物質的な資源が豊富であり、国家の生産体制が高度に現代的になり、富裕な者は人々に商品を売る(つまり、商品を分配する)ことによってしか利益を得ることができないような状況においては、改革による調停の必要は大きなものとなる。売買によって成り立っている経済体制(「消費者としての市民」)では、「よき」消費者へ導く誘因もあれば、それとは矛盾する略奪へと導く誘因もある。恐らく、この対立矛盾は、商品の組織的な破壊を伴った国家的戦争が生じるときに、破裂にまで高まるだろう。あるいは、ファシズムの勃興でも同じ結果が生じるだろう、というのもファシズム政権下では、投票による検証が行なわれないので、すぐに別の調停の必要があらわになる。

 

 ファシスト国家は、自由主義デモクラシーがしているのと同じように、持たざる者を国家の保護下におくことで問題を一時的に解決しているように見える。この集団は特別手当によって体力を回復する(ファシスト国家においては、プロパガンダの技術、集団的シンボリズムによって、スコップをもって行進する「労働者」にも銃をもつ軍隊同様の「士気」が行き渡っている)。他の者は、軍需工場で働くことで、普通の資本主義的経済を行なっている。しかし、この非生産的な活動は、詰まるところ、国家経済の流失なので(弾薬の山を得る代わりにバターが不足する)、古くからの封建主義でしか支払いをすることができない。弾薬への投資は、見込まれる「戦利品」への投資でなければならない。

 

 現在のところ、巨大産業と財閥とがこの投資を請け負っている(ある程度、利益は手形によって得なければならず、その手形に関わる利害は更なる手形によって支払われ、複雑な負債の関係は更に多くの手形によって精算される)。こうした利乗せによる現在のドイツのインフレーションは、法外なものに違いない。そして、ヒットラーの背後にある力が「資本主義の矛盾」によって生みだされた悪夢を喜んでいると信じる根拠はない。その建設で労働者に幾分かの賃金を与えた戦争機械が、「その成果を出す」ことを許されない限り、妥当な投資の回収はあり得ない。そして、そうした工場の唯一可能な産物は戦利品であり、外国の領地の豊かな資源を奪うことにある。そうなると、封建主義に通例の略奪品の分配が可能となる。戦った大衆には少なく、証券を償却する高貴なるファシストは多くというわけである。もし外国の領土が長い間抵抗し、海外の信用を得るに十分なだけの利益の見通しが立たないなら、軍需工場はつぶれてしまうに違いない――そこに貴族だけが残るなら、彼らは償却することのできない証券とともに残るのである。*

 

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 我々の自由主義的なデモクラシーでは、政治的調停の過程は(イロニーとなるほど的確に)「損害の社会化」と名づけられている政策を経由し社会主義に向かって進んでいる。我々連邦の財産が個人の銀行を助けるのに使われているように、どの集団も政府の共有されている信用を利用し、個人の財産の助けとしている。この損害を「社会化」する政策は、長年にわたって知らぬ間に広まってきている。重大な一歩はフーヴァーの復興金融公社とともに始まった。そして、良品を大量生産しようとする傾向は、ルーズヴェルトのもと救済策のより大きな民主化へと向かったのである。わが国は、国民の大多数による互助作用が組織化されたイギリスほど「損害の社会化」が拡がってはいない――しかし、恐らくは、我々にはそうなる余裕があるのだから、単に遅れているだけなのだろう。そして、状況が要求する通り、政治的調停の必然は、戦争という大事件が介入でもしない限り、この「社会主義」への喜劇的な転倒へ向けて進んでいくだろう。(この文章が書かれてから二十年近くたち、「社会保障」という考えは、「年間保証賃金」へと移っている。)

*1:*不運なことに、在外の信用貸しについても同じことになるような要因がある。というのも、担保の売り手と担保の買い手の間には副次的な「階級闘争」があり、ある条件下では前者の「階級」が後者の相当の利益を「搾取する」ことができるのである。もし銀行がファシスト国家への融資の方法を探り、それを一般投資家に任せるなら、彼らは手数料を取ることができ、担保となるものに価値がなくとも「事実上」十分な利益を上げることができるのである。(1955年の追加。政府が海外で売買したり、在外のクレジットを融通し、その費用を自分の投資銀行を通じて貸し付けるなら、同じ結果をより完全に、より少ない危険でだすことができる。)