ケネス・バーク『歴史への姿勢』 27

 第一幕はこの問題に直面する。問題は可動と定着との比率において先鋭化するように思われる。ヘレニズムの衰退期における論争的な発言は可動的なものだった。それが終りに向かい、帝国の権威への転換がなされたときも可動的だった。しかし、それは征服者が通常手つかずのままに残した定着性からの根の深い反転のように思われる。

 

 ペルシア帝国がこうしたやり方を定着させたように思える。新たな領域を併合するとき、ペルシアの支配者はその内的体制を改革しようとはしなかった。歳入の獲得を確かなものとするのに充分な新たな官僚組織を投入したが、残りの慣例的な制度はそのままにした。エジプトの侵略は、「金融引き締め」の助けによって工業家を追い出し、その工場を引き継ぐことのできた現代の銀行家のようなふるまいをみせる。戦略的な地点の役人は何人か変えられるかもしれないが、工場の一般的な「慣例」はそのままに残される。方法上の発明は、慣習的な技術によっても導入されるだろう。そして、ギリシャとペルシアの中間的な考え方をしていたマケドニアの支配者がギリシャ都市国家を征服したときには、ギリシャの議会制度を変えはしなかった。確かに、部分的な政治論争には干渉し、ある党派の後ろ盾になったりはした。君主制の確立のために地方の自律性を「利用した」。しかし、議会制のあり方そのものを改革しはしなかったのである。

 

 「定着」について語るときには、建国期のローマのように古い住民を追い出し、占有した土地に軍隊を置くといった、征服地の再植民化が行なわれない限り、定着が根本的に損われることはないという状況を心に留めておくことである。今日の帝国主義は、新たな生産の技術を導入することによって革命的な可動性を作り上げ、古い生産技術によって形成された人々の間に新たな人員を補充する。しかし、地中海を背景にもつ地方一般についてみると、その周縁はそうした可動性に従っていない。彼らはローマに十分の一税を支払い、過剰な商品を生産し、その結果(aローマ市民は失職し、(b)彼らを慈善的分配によって助けた(そのときの財産制度で可能な唯一の緩和策)。

 

 ある種のヘレニズム的な効率の尺度が導入され、慣習に根づいた生産方式に新たな「科学的」方法が取って代わった。しかし、こうした可動性のほとんどは、大規模農園の勃興とともにラテン半島およびその近隣で生じた。周縁地域では慣習による生産法が守られ、ヘレニズムの文化的断片の可動性を下敷きにした定着性による蓄えが供給されていたのである。

 

 この本の始めにおいて、我々は歴史の純粋に「経済的な」解釈について抵抗を示しておいた。巨大な帝国の完成はなんらかの「精神的な」力を参照することによってのみ説明することができる。しかし、論を進めていくうちに、経済の強調が避けられないことがわかった。たとえ、なんらかの「精神的な」要因が帝国の「核」、すべての組織がそこから発する事業の部分において働いていると想定するにしても、全体としての帝国の建設は経済的要因によってのみ説明できると思われる。

 

 それを歴史の「バンドワゴン」理論と呼ぼう。ある候補者は強力だが、充分強力ではない。最初の投票は同点である。その後、突然に、何ごとかが起こる。背後で交渉が行なわれた。三人の代理人がこの候補者に投票を切りかえたとわかった。続く投票では、この「バンドワゴンに乗る【勝算のありそうな候補者を支持する、勝ち馬に乗る】」として知られることが起こった。他の地方の代理人も、事態の成り行きを見て投票を切りかえた(時期を見て切りかえれば、一番いい状態の果実がある)。候補者は圧倒的多数を手に入れる――そして、数週間後には、彼に厳しく対立していた政治家たちが、いまでは彼の選出を論じるために忙しく遊説することになる。

 

 この候補者の価値の「核」にあるのは「精神的なもの」(専門的な意味において。というのも、この語はハーディングのような人間の「精神性」を指すのにも使用されねばならないから)だということもできる。しかし、バンドワゴンの過程は全体としては「経済的な」ものであり、政治的な隠れ家を失うまいとする危惧によって説明される。同様に、ある国家が候補者となりうるほど強くなったとき(ラテン連合のローマのように)、隣接した領域は非常に危険性の高い抵抗かバンドワゴンかで選択を迫られる。一度バンドワゴンが始まると、強いものは一層強くなる(ペルガムムの王が自分の領土を「自発的に」ローマに遺贈したときのように)。抵抗する弱小の区域は、抵抗を効果的なものにする同盟者を引きつけることができない。

 

 ここで始めて我々は「精神的なもの」について言うことができる。バンドワゴンは集団をまとめ上げる――このまとまりのもと、自分たちにふさわしい共通の標語を考えだし、あるいは見つけだそうとする。

 

 そうした標語は、初期の皇帝によって完成された広範囲にわたる実際的な流通のネットワークに知的な部分において対応するストイシズム、ローマの「世界主義」の理論によって完成された。海賊行為は減少した(外洋でも騎士階級のローマ商人、キケロの言葉を借りれば騎士団であり「新人」の間でも)。集団的要素の異なった強調の仕方が再び見られるようになる(第一線で戦う者にはより多くの富を手にする「資格が与えられ」、後続の者は軍隊用品を売ることで金を得る資格が与えられていた初期のローマでも集団的な要素が強調されていた)。

 

 それが所有権という非集団的な体制のもとなされていたのは否定すべくもない――しかし、ここでも、保留をつけなければならない。帝国という集合体を代表する皇帝の関心が他の所有者の関心に影響を与えるという注目に値する側面があった。巨額の金銭が支払われた「皇帝の」宝物庫は流通のネットワークを支えるのに必要とされた(その貿易路、政治の官僚組織、軍隊)。広大な土地を所有する者でもその関心を皇帝と完全に一致させることはできなかった。最大級の財産をもつ者が幾人か可能だったが、それ以下では無理だった。皇帝が農場を没収すれば、その歳入は「彼」のもとにいく(そして、「彼の」宝物庫は実際には「公的な」宝物庫だったのである)。それゆえ、財政状況が緊迫すると、皇帝はこうした所有者のものをなんとが奪えないかと口実を探すようになる、特に、彼らのお気に入りの軍隊が権力を握り、バンドワゴンに乗りこむのが遅くなったりでもすると一層である。

 

 それゆえ、ストア派の受容の枠組みによる国家集団主義の理論は単なる感傷的な欺瞞ではなかった。我々に言えるのは、帝国であった時代を通して、それが「矛盾」の中心にあったということだけである。独占の代表者としての皇帝は、所有権の支える者でもあった――しかし、「彼は」帝国を運営する資金を出しているので、より劣った独占家や土地所有者との戦いにも関与した。現在、鉄鋼のトラストが木綿商人が費用をもつ好都合な法律制定を望んでいるように、財政上の必要から、皇帝は手に入れることができるときにはいつでも財産をつかみ取ろうとしたのである。主要な政治的独占を維持していくために、しばしば、小さな独占家の歳入を押収することさえあった。