ケネス・バーク『歴史への姿勢』 30

第三章 プロテスタントの転調

 

 第三幕は「急展開ペリペテイア」であり、プロットの方向が根本的に変わった。著しく目立つ転調であり、歴史的ドラマの「分水嶺」である。ルネサンス宗教改革。この時点において、純思想的なものと経済的達成の双方において否定的強調が組織化された。教会と国家の分離への訴えを始めとして、我々が正式に始めた分解の過程は、あらゆるものの理論的な分離にいたり――数世紀後には、宗教はここに、政治はまた別の場所、芸術、科学、仕事、それぞれが別の場所に――また、それぞれの分野に更に下位の分野が生まれることとなろう。我々はこうした母親と胎児さえ切り離されているような状況で、現代の生理学者の夢に究極的な形で象徴化されている胎外出産という理想に到達しているのかとさえ思う。「政府は商売に不介入のこと」、「商売は政府に不介入のこと」。司法は行政、立法と独立していること。教育者は公共の事柄にかかわらないこと。あらゆるものをその他あらゆるものから分けること――そして、こうした状況を見まわした者は、すべてがばらばらで「もはや偉大な人間は存在しない」と不満の声を漏らす。ハンプティ・ダンプティを再びもとのように継ぎ合わせたいと望み――同時にロシアの統合を不信の目で見つめている。

 

 歴史のあらゆる時期に転調はあるが、ルネサンスの啓発がプロテスタントの熱狂とブルジョア的経済の発生と混じり合った時期は、特別にそうである。我々は、ある人間の知性が別の人間の愚かさとなり、反宗教的、非宗教的な抽象的思想が、それほど教養のない者たちの間に伝わると、凶暴な宗教戦争となってあらわれるといっためまぐるしさをとても図式化することはできない。あるいは、個人主義的な事業家が、聖書の口語体訳に刺激され、あらゆる人間が教会によって蓄積された解釈の集成のなかで訓練されることなしに、自由に解釈者となれるかのように、物質的野望と高度な道徳的動機を混ぜ合わせてしまうといった事態である(十九世紀、ベンサム功利主義による「経済的精神分析」が出るまでは分解されていない統一構造があったが、彼の説によると、道徳的動機は物質的利害の「称讃的覆い」となる)。

 

 誠実さと狡猾さが、啓発と愚かさと解きがたく絡みあっている。「貧しい教会」の説を述べる者は、恐らく、言ったことそのままを意味しようとしているのだろう。教会はバビロンの娼婦のように金持ちであるべきではなく、キリストのように貧しくあるべきである――しかし、その説が「経済的に道具として用いられ」ると、野心のある君主が教会の土地を自分とその派閥のために横領するのを正当化するためにその説を用い、それによって封建的紐帯を壊し、結果的に農民から彼らがもっていた集団的所有権を取り上げることになる。

 

 封建制では、詭弁的な虚構は、支配者や教会の上位一部という比較的小さな集団の「利益の分配」に制限される傾向があった。カルヴィニズムではこの「救済措置」が「民主化」された――カルヴィンは、法的な口実を廃し、「利害」を一般的なものとすることを明確に支持した。彼の天の摂理という考えは、争い合う騒ぎを「超越」し、金銭にかかわる実践という現実を感傷的に否定しているために腐敗に帰した。そして、彼の霊的なシンボルは「経済的道具として用いられ」る両義性があり、「天の摂理」による霊的な未来主義が、世俗的な「投資」の未来主義と結び合わされた。*事業の発達には必然であるこの動きは、より近代的な意味合いをもつ「野心」を伴った、新たな正当化の哲学によって裏づけられた。

 

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 教会では、聖職者の役割だけが「職業」だった。そして、教会について考えることなく、実際的な仕事にあまりの大きな関心を払っている者は、世俗的な利益ばかり「無益に求める」として譴責された(「無益さ」と「多忙さ」という我々には不調和なものを一致させるのは、「職業」についての特殊な考えをもつ封建主義の枠組みで育った者にはまったく明らかなことだった)。しかし、カルヴィニズムは、神の栄光のため人は利益を得ることができるとし――あらゆる交易は「天職」となる――そして、カルヴィニズムの教義によれば、天罰を恐れる必要などないのであって、物質的な繁栄は神の好意の目に見えるしるしである。

 

 「帰納的方法」の懐疑的傾向というのがあって、デカルトの「組織化された疑い」という説は、不確実な状態を肯定的な創造的原理に転化することを提起している。それは技術の発展において多産な方法であることを示した――しかし、より単純な心持ちの者たちには、部分的な「判断の宙づり」を求められるだけでも、確実性の、それこそどんな確実性であろうと、再建などは我慢できないものであるに違いない。そして、世俗的な権力についてのマキャベリの論説で始まった非超越的な動機の理論は、物質的力の増加という判断基準に則った行為の合理化を率直に認めた(この姿勢は、当初は高い地位にある者に限られていたが、個人的な事業がどんどん組織化され、君主の軍隊の装備を受けもつまでに発達し始めると、結局はより「民主化され」ることになる)。

 

 様々な場所で既に述べたように、「疎外」の両義性がここでは重要な役割を果たしている。ブルジョアの「自由」は、多くの人々にとって、その終りがそうであろうようにその始まりにおいても、特別恩恵ではなかった。イギリスでは、何千もの「自由を得た者たち」は、飢えるために新たな土地を手に入れたようなものであり、農業をやめ、より経済的に効率のいい羊毛に乗り換えた。この仕事にはそれほど人手は必要とされないので、古い経済から放り出された者は生活の手段がなく、工場街へ移住し、勃興する工業に呑み込まれていくことしかできなかった。こうした二つの経済の間に捕えられた「不活発な失業者」は、教会の慈善設備が大いに損われていることでより不利な条件にたたされた。こうした疎外の全過程と生産方法の変化は、増加する金銭の使用と、会計学が発達することで可能になる利益の量的な検証によって「合理化」された。

 

 しかし、資本主義的枠組み(カトリック正統派、科学の濫用、ポープの『愚人列伝』にある格調高い締めくくりの図式を借りるなら、「神秘から数学へ」の転換によって人間の努力が量的金銭的基準に導かれるようになったことが入り混じる)を予示すると考えることなしに、プロテスタンティズムの勃興を論じることは困難であるにしても、この観点からのみ取組むことは間違いだろう。多くの点で、プロテスタントの共同体は、初期キリスト教教派と同じ神秘的同質性をもっている。にもかかわらず、我々はここで一つの逆説を得る。教会の「有機的な」理論とは対照的に、相違について寛容であることで、利用できる社会的関心を一緒にしようとしているのに、どのようにしてプロテスタントセクト完全なる斉一性という価値を強調できるのだろうか。この斉一性が損われるたびに、すべての成員が同じ身分である同質な共同体の必要を再確認する新たな「非妥協的」分派へと枝分かれしていく傾向にある。だが、この同質性の教義から、誰もが知るように、最も大きな職業の多様性が生じたのである。世俗的職業についてのプロテスタントの教義は、プロテスタントセクト主義に固有の斉一性の理想を遙かに超えた技術的発達を刺激したのである。

 

 こうした考えは、歴史的曲線を描きだすのに重要なもう一つの要素を示唆する。我々は、ある枠組みがどれほどその副産物を生みだすかについて注意を払わねばならない。あるものを狙った行為が付随的に別のなにかをもたらすことがある。そうした文化的副産物は多くの種類にわたる――それは物質的、精神的性質のすべてに関わるので、「疎外」の全領域に跨っている。

 

 「副産物」は、それが生じさせた歴史的重点よりも、文化的要因としてより重要となる点まで累積すると、目的についての新たな方法論の転換が必要となる。不運なことに、このときまでに、古くからの目的は、行政的、教育的、警察的働きを通じて完全に官僚化されてしまっていた。人々は、古い権威のシステムを守るよう教え込まれた。政治機構はその精神にあった法を制定した。そして、文化的に順応できない者を「犯罪者」として威圧する有能な警察制度が存在する。*かくして、ある特殊な集団が、その繁栄には副産物の切り離しが必要だとして組織化されると、「文化的遅れ」、「階級道徳」、「内的矛盾」という言葉は交換可能なものとなる。彼らは貧民窟を欲しはしないように、副産物を欲さない。しかし、貧民窟を生みだす利益獲得のシステムを欲するように、副産物を生みだす目的の正統な根拠を求める。権威の道筋を支配しているのを利用して、心を「しつけ」、「正しい」ものを求めるように強制する。

 

 

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 それらが「正しい」ものではない限りにおいて、またその枠組みが「意図せざる副産物」を考慮に入れていない限りにおいて、我々は「疎外」を得る。この「餓え」あるいは「空虚」(「Entfremdung」)を避けるために、カルヴィニズムが、投資の副産物として生じた中世の理論を超越するような投資を認めたように、古い目的の図式を「超越する」ような新たな受容の枠組みが必要とされる。古くからの枠組みには、それ自体社会的な示威行為である権威のシンボルが含まれているが、権威の転換は以前の予言者たちを片隅に追いやり、「反社会的な」ものとみなす。これは心理学的には、「否定主義」、「分離」、「分解」、「セクト主義」、「分裂化」としてあらわれる。あるいは、権威あるシンボルを「あちこちに動かす」といった戦略的解決によって補償する。古い秩序の支持者が「自由、正義、同胞愛」といったシンボルで威光を示そうとするなら、新しい秩序の弁護者はそれらを「引き継ぐ」ような擁護論を打ち立てるだろう。特に今日のアメリカでは、もつ者ともたざる者の代表者たちによる論戦、シンボルを「あちこちに移動」させながら争われる奇怪で耳障りな角逐で、「自由」というシンボルを得るための戦略的行動が戦わされている。

*1:*この逆転は、十九席初期のベンサムまでは完成されなかった。スコラ主義があらゆる利害を「金貸し」という範疇のもと非難し、カルヴィンが上手い具合に利害と金貸しとの区別をつけたところで、ベンサムは「金貸しの擁護」という形で、利害への関心を正当化した。

*2:

*警察力の働きは、不適合の割合が増えるに従って、突出してくるようになる。我々はいまでは、広範囲にわたる警察組織を「当然」のことと見なし、「頼もしく」、「有効」だと考えており、警察機構の増大は資本主義において「利害関係」のあり方が増大したことと軌を一にしていることには一般的に無頓着である。

 

我々の「新マルサス原理」はまだ曖昧だろうか。この原理は、ある種の慣習が完全に官僚化されるときには、その物理的限界にまで増殖する過程を名づけたものである。ある意味で、これは「悪循環」の別名であり、というのも、資本主義がそれに対抗するには強い資本主義的態度で臨まねばならないように、分岐増殖は更なる分岐増殖を求めるからである。技術的進歩とブルジョア的所有権のシステムを伴ったプロテスタンティズムの勃興は、かつてないほどの個人事業の量を可能にし、必然的にした。可能性は、社会体制全体がそうした可能性の有効な利用について組織化されるまで、必然的に利用される。この有効性は物質的体制を後ろ盾にしており、「官僚化」に等しい。そして、そうした官僚化が成長すると、それに対応する慣習が「マルサス的限界」まで分岐繁殖した。この点において、「階級特権」は「文化的遅れ」として働いており、別の集団には苦痛である極度の官僚化によって利益を得る集団がおり、そうした集団は限界点まで進む不穏な慣習を維持するために制度を守り利用する。

 「想像的なものの官僚化」を裏づけにした新マルサス主義原理の働きは、中世の教会と現代芸術に関わる単純な比率によって例示することができる。教会(制度)と宗教(想像的なもの)の比率がアカデミーと芸術の比率に等しい、と。

 官僚化は「働きかけ」、それで「もうける」ということに等しい。この傾向が、詭弁的な拡張に示されるような限界点にまで進むと、「祈り」に最大限に頼ることとなる。祈りは「罵倒」(「こきおろす」こと)の裏返しである。その世俗的、法廷における等価物は法律制定で、それは法という官僚化された体系を利用し、悪のしるしをその原因を取り除くことによってではなく、言葉による放逐行為によって祓おうとする。言葉による放逐は、教会による破門の宣言が官僚化された警察組織に頼ることで、「祈り手」に対して「実行力」をもつような具合に「現実性」が与えられることになる。