ケネス・バーク『歴史への姿勢』 32

 ヨーロッパでは、「生活」の最低基準と異なる人々の「再教育」が貧弱な道徳的訓戒になることはなかった。例えば、文盲が読み書きの能力を得ることは、それにふさわしい制度内の一員として「利用」されうるという想像力の働きを伴っている。イギリスで盛んに制定された「詐欺に関する法令」は「法令」から「契約」への転換を示しており(つまり、成文化されていない慣習から成文法へ)、証書によって示すことができない限り、財産の権利は保障されない。古くからある、「領主の」地所を使用する封建的権利は、慣習のもと認められていたので(相続人は、彼の祖先が権利を与えられていたという理由である種の権利が認められる)、引き継がれていく権利は縮小に基づいている。長く続けば続くほど、書かれた記録、証拠は少なくなっていく(王家の記録に留められる君主の下賜は例外として)。

 

 もう一つの大きな助けは、1688年の議会による「囲い込み」で、共有地の個人的な占有が組織的に行なわれた。その多くは既に司法の決定にそって行なわれており、重宝な会社法の決定(会社は、法的には「人格」と考えられ、人権宣言によって保証される個人保護の対象となり、法規制を逃れることができるようになる)とともに、後のアメリカでと同様、イギリスにおいても「革命的」であることを証明した。議会の目に見える行為によって、司法の仕事は最大限の「効果」をもった完全なものとなった。

 

 産業革命におけるイギリスの主導権は、王を首長にいただくピラミッド状の権利と服従の構造を無遠慮に押しつけたウイリアム征服王にまで遡ることができる。大陸では、王政による封建主義は、より原始的な形からゆっくりと生じてきた。それは、征服者がすべてを清算し、上から下まで一貫した新たな位階を作り上げ、それを自分の手下に任せ、その手下は更にそれ以下の部分を自分の手下に任せる――そして、様々な権利は慣習によって固定化し、君主はピラミッドの頂上にとどまる――といった、イギリスの制度のような合理的な完成に達することは決してなかった。

 

 大陸では、君主は他の独占者を締めだすことで、次第に独占を広げていった。彼らは初期の原始的な構造の上に法的構造を打ち立てた――それゆえ、征服者の効率的で組織的な制度が敷かれたイギリスのように早くから合理的な完成に達することはなかったので、イギリスでは一個所に集中して力をためることがないように、征服者の直接の部下たちには飛び地の支配が任せられたのである。

 

 かくして、資本主義的実践が最初に明瞭な形で生じたのは、地中海貿易と教皇の財力とが結びついたヨーロッパ南部においてだが、資本主義の可能性を最大限に官僚化することができたのはイギリスだったのである。イギリスの封建的構造を「精神的な」遺産、「好都合な心のあり方」とのみ考えるべきではない。ナスバウムがゾンバルトの『近世資本主義』を要約しているところにしたがうと、「イギリスの王室は、中世の世俗的な権力のなかで、財政的に最も有力だった。ウイリアム征服王は、死の年にはおよそ二百万ドル有していた。一世紀後のリチャード獅子王でその約二倍である。」

 

 後に、同様の現象はイギリスを上回る速度でアメリカにも見られて、西に向かう運動が「ヨーロッパのアメリカ化」として東へ向かう運動として帰ってきたときに、教養あるイギリス人はアメリカのイギリス化をある意味心地よい愛国心をもって非難することができた。我々はまた、非商業的な集団と新たな文化的融合を形づくる代わりに、インディアンを虐殺することで、合理的で完璧な枠組みを押しつけもした。しかしながら、ここでにべもない決定を下したのは封建的な征服者ではなく、資本主義のシステムである。資本主義者のやり方は、それ以外のものがほとんどないために、最大限の効率をもって発達できた。大陸では封建主義はローマと原始社会の混合から生じたように、イギリスでは、封建主義から資本主義が生まれたのである。それゆえ、大陸では、イギリスでのように「化学的純粋」を保つことはできなかった。

 

 アメリカでは、地域的な抵抗がどれほどあろうと、抽象的な財政という統合の仕掛けで消し去ることができ、また政治的中心を組織化するための資源を支配することで辺境(周縁)の命運を支配できる。抽象的な財政の原理とは、一種の塗料のようなもので、それによって各地方の特質、地理学的要因や人種的伝統の結果発展してきた個別の特徴を曖昧なものとし、無視することができるようにする。この原理は、「人種のるつぼ」から溢れ出た開拓地の大衆たちに形を与える鋳型を提供する。ニュー・イングランド神権政治的特質、南部の封建的特質、西部のポピュリスム的特質、それらはすべて資本主義という超特質によって作り直された。

 

 イギリスでは、国家主義的動きが既に始まっていたので、君主制によるピラミッド状の封建的構造が先頭を切って走る際の絶好の後押しとなった。それによって、より原始的な体制に直面したときに、新たな法的枠組みを無遠慮に押しつけることができ、その結果一部の人々に「疎外」をもたらすことになった。その枠組みはある意味表面的で、「抽象的」だったので、容易にそれをいじりまわすことができた(「慣習」による検証を「合理性」による検証に変えることで)。というのも、慣習の純粋に魔術的な権威主義よりも交通法規の合理性のようなものの方が構成要素だったからである。

 

 ウイリアムが、人々の間に既に行き渡っていた諸権利の仕組みについては大部分そのままに残したのは本当である。しかし、法的な部分においては、偏りのある古くからの範疇と部分的に重なる新たな財産の範疇を導入した。以前からあった「動かせる」と「動かせない」財物の区別は次第に、ノルマン人風の「動産」と「不動産」の区別に変わっていった。我々は、新たな法体制がいまだ行き渡っておらず侵略と感じられている間、道徳的混乱をもたらした空白期間にグロテスクな疎外を探し求めても許されよう。

 

 また、ノルマン人の君主の言葉が部下のアングロ-サクソン人の言葉と「食い違う」ときの言語状況も、疎外の重要な要素だったと想定される。ノルマン人の言葉は「救済」の見込みを述べるが――証しとしてそれを受けるのは少数に限られている――この「救済策」が民衆の会話に次第に編入されて「民主化」されるまでには介在する「遅れ」の時間があった。*

 

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*1:*ノルマン人の発言(権威的シンボルと関わる「救済策」)の民主化には、それに対応する「質の低下」が認められる。しかし、「低下」というのは絶対的なカテゴリーではない。民衆の会話に民主的に編入されることでノルマン人の発言が「低下」することは、英語の向上と完成と同義なのである。