ケネス・バーク『歴史への姿勢』 34

第五章 新興の集団主義

 

 歴史的ドラマの第五幕は部分的にはいまだ終わらずに残っており、読者もそこに参加し書き加えていくことが求められている。最初の四幕のシナリオが、既に見たような材料を「重視し」、ある狙いを「定めた」ものであったので、読者は同じ精神をもって続けることができよう。過去の歴史は、未来について語るための証拠となるのでなければ価値がない。しかしながら、我々が副次的に「世俗的な祈り」について述べたことは、副産物として、意図せぬ抵抗をもたらしたかもしれない。我々は「単なる祈り」で、まじないという「言葉の魔術」によって現実を従えようとしている、と反論されるかもしれない(コミュニスムの支持者が未来を擬態によって無理やり呼びよせるダンスを好み、プロレタリアートの勝利を劇化した儀式に欲しているものの実現を見るように)。

 

 反対に、我々の「世俗的祈り」に対する姿勢は、そうしたぞんざいな却下ではあまりに「両義的な」ものとなってしまう。「世俗的祈り」には、性格設計、集団的、歴史的目的についての理論に照らして、個々の性格と役割を形づくることが含まれる。現代の権威のシンボルは混乱しており、人は「理想的な」権威の概念を形成するが、その全体的な官僚化、慣例、生産方法、所有関係など全体として具体化されるまでには達していない。人は未来の基準に従って、現在の「受容の枠組み」を形成する。

 

 それでは、集団主義の発生が五幕の論理的な帰結となるよう最初の四幕を纏めてみよう。図式化すると、次のような歴史的曲線を得る。

 

 第一幕。冒頭の状況。ヘレニズムの衰退。キリスト教福音主義の発生。

 

 第二幕。プロットの進行。封建的-中世的総合、トマス・アクイナスの『神学大全』によるその象徴的な完成。建築のメタファーの静的な意味合いに見られるような、現状維持への訴えかけ。服従と慣習を強調する家族のメタファーによって、魔術的で、非政治的な権威の概念に訴える。

 

 第三幕。「急展開」、あるいは移行期。プロテスタンティスム、ルネサンス宗教改革。第二幕に始まる「意図せざる副産物」。否定主義、啓蒙主義、合理主義、個人主義セクト主義の完成。慣習に根づいた混乱した質的検証の代わりに、利益の量的な検証が。

 

 第四幕。新たな局面の「開花」。アダム・スミスによる市場の正当化で象徴的完成に達した素朴資本主義。「美徳」が自動的になり、「需要と供給の法則」が慈悲深い摂理のように働き、個人の貪欲が集団的富に転化する。

 

 第五幕。新興の集団主義。独占資本と金融会社の成長がアダム・スミス説の根拠になっていた均衡を脅かし始める第四幕で始めて明らかになる。「有利な貿易均衡」の混乱(国家、あるいは国家内の集団に関して)。

 

 我々の考えによれば、集団主義が生じざるを得なかったことを抜け目なく示しておきたい。まず、それは、近代の経済学者が非常に皮肉な「損失の社会化」という言葉で示しているように、「裏口から」入ったもののように感じられる。「損失の社会化」の傾向は、逆境のとき、集団的な交換媒体、国債によって個人資産を守るよう政府に要求するほど、金融に関する関心が大きくなったときに始まった。徐々に、この手頃な「救済策」は「民主化」され、次々にその恩恵を求めるものがでてきた(アメリカでは退役軍人への恩給で始まったが、この小規模の「財政の再植民地化」は、ローマが征服した土地で行なった再植民地化に対応する)。

 

 資本主義の不景気は、以前のものよりもどんどん強くなり、破裂点にまで達するという説に疑問を投げかける者もいるかもしれない。インフレーションと虚脱との躁鬱的な繰り返しは資本主義的な配分様式では「通常」のものであり、太ったときもあれば痩せたときもあるのが「自然な」ことであり、太った時期にはより以上のものを得たいと願う投資家の助けによって商品の広範囲にわたる配分がなされる(悪い投資でも、一時的に仕事と賃金を提供することで、結果的に「富の再配分」がなされる)。恐らくこの「国家計画」の異様な抛棄は続けていくことができるだろう――特に、金銭の象徴的構造は際限なく操作することができるように思われるだけになおさらである。しかし、次々に起こる不況において、個人財産の縮小を和らげるために国債が頼られ、「損失の社会化」への要求が高まっていることは認めねばならない。この意味において、いわば「裏口から」周期的な不況は資本主義を次第に社会主義に近づけることになるのである。*

 

 

*1

 

 部分的には、商業哲学の公的なスローガンにある社会化の傾向は、「奉仕主義」によって最高潮に達すると言えよう。この考えによれば、自由主義の擁護者は暗黙のうちに、「奉仕」という観念の都合のいい部分だけをとっていることになる。

 

 「奉仕主義」で意味されているのは社会的な奉仕である。共同体によって価値のある行動が推奨される。集団的な意味合いをもっているのである。

 

 奉仕の心理学の背後にあるのはなんだろうか。社会的な奉仕とは、社会に対して何かを支払う一つの方法である。それは債務の支払いである。既に見たように、教会は罪を土台にして集団的構造を打ち立てることにおいてはとりわけ狡猾だった。「原罪」という教義をつくり、個人は社会化されるまでは救われないとした。しかし、自由主義者は「人間の生得的な善」を主張する(恐らく、その創始者であるルソーの場合には、強い罪の意識が見て取れ、強い迫害の感情から多くの人間関係が壊れているのを見ると、感傷的な超越によってそれを否定するだろうが)。いずれにせよ、自由主義の擁護者は、最終的には事業の「正当化」として「社会奉仕」に帰ってくる。そのように考えられた奉仕が害になると考える必要はない。ただ、最も「啓蒙された」段階では、事業者は直接的間接的に自分の武勇を称讃してくれるような擁護者を雇い、その擁護者たちは、暗黙のうちに集団性への奉仕(束縛)による「罪の償却」という考えに戻るに違いない、と指摘すれば足りる。*

 

 

*2

 

 「自由」についての話題が次第に、個人とは奴隷であり、社会の規範の貢献することで自己を「正当化する」のだという主張の擁護の目的に「利用される」社会さえ想定することができる。問題は「自由対屈従」の争いではなくなる。屈従と自由の両義性が体現する様々な枠組みを測ることが問題なのである。

*1:

*こうした隠れた社会化の過程を維持するために、金銭に関するシンボリズムの操作を含む信じられないような過程(最終的には、所有関係を目に見えない形で変える)が進行しているに違いない。それは、既に、イギリス、フランス、合衆国の政府による公債の均等化、協定を白紙にし、ファシスト国家が海外貿易の振興に用いた様々な値下げ策を撤回することなど二三の例に間違いようもなくあらわれている。

 しかし、ここには、我々が認める以上の濫費がなされているに違いなく、というのも金融シンボリズムの本性として可能なものは必然としてしまうからである。特に、シンボルを操作しうるという気楽さがインフレの可能性(必然性)を呼ぶ。それゆえ、「新マルサス原理」は、慣習の多様化が金融の放縦さを招き、自身の発祥の根である金銭的な根拠まで破壊するのではないかと思わせる。それゆえ、密かなインフレーションが行なわれる。商品の値段がそう上がらないことを示して疑いを晴らす必要はない。我々は値段が下がるものだと思っており、人目につかないインフレ過程に支えられなくとも、生産量の増加と比例して実際そうなるだろうからである。

 負債は絡みあっており、ほどくことができない(政治と商業界の間に取り交わされたもの、個人の「分割払い」、不特定の先物取引を含め、公債個人の持株を刺激したり守ったりするために使われることなど)。この負債の困惑するほどのからみ合いは、金銭の物質的な基礎づけを完全に消し去ってしまう。金銭は物質ではなく、ある働き、社会的な働きによって「裏づけられる」ことになる。この観察は金塊にさえ当てはまる。金塊に基づいてつくりだされた虚構の象徴的上部構造ではますますそうであり、金とは曖昧で詭弁的なつながりをもっているだけである。

 シンボルそのものの相互関係に金銭的シンボルの研究を限定している正統的な経済学者(永久運動との類比によって金融の分析を要求されているようなものなのだが)が、雇い主たちに服従するようになるのは間違いない(そこで、資本主義的で、正統な大学の席が授けられ確保される)。しかし、彼らは明確化ではなく神秘化に寄与している。他方では、金銭を特殊な金融現象であるよりも、社会学現象と考えることで、ファシスト国家が自分たちのインフレーションをあらわにする「諸法則」をなんとか打ち消そうとする作り話の手がかりを与えていることにもなる。社会政治的な要因を認めることは、公債の民主主義的均等化を含んでいる。ファシストの司令官が工夫をすれば、同じ原理をより「効率的に」具体化できるのは明らかである。

 しかし、「損失の社会化」を経由する社会主義は「堕落」に等しい。というのも、それは、高利貸しを非難するスコラ主義的原理のもと高利貸しを許可していた法的虚構とまったく同じ、法的虚構の積み重ねと、その結果としての堕落を含んでいるからである。この腐敗からの救いは、カルヴィニズムによる「新たな出発」にあって、彼らはゲームのルールを変え、あからさまに高利貸しを認めることで(利害関心という婉曲な言葉を使って)、否定を肯定に塗り替えた。肯定のように見えるもので塗り替える試みは、ファシズムにおいて完成し、パルム-ダットは見事な「不調和による遠近法」によって、極めて効果的に「堕落の組織化」を名づけたのである。しばらくするとまた別の不調和に赴き、それは、ドイツとイタリアのナショナリズムがその原則をスペイン国家に対する「国家主義的反乱」を支持することで具体化した際に見て取れる。スペインの民衆は、ドイツの侵略者を「アーリア系ムーア人」と名づけることで、自分たちの「不調和による遠近法」を急いで発明したのである。

 社会主義は、こうした密かで、詭弁的な裏口からの社会主義を廃棄し、確かな根拠のうえに社会主義化を行なうべきだろう。

 

*2:

*この著作の様々な場所で、我々は罪から自然に形づくられる束縛について触れた。個人的な事業の正当化についての上の記述は、「理性」の本性(理性が、個人の所有になる社会的産物を言語化したものである限り)に含まれる罪の「形式的な」発生を示唆してはいないだろうか。つまり、個人的な行為を合理化できる唯一の方法は、公的な影響に言及することである(自分以外の誰かによって「よい」ことを示し、家族、階級、国家といった様々な領域に関連づけることによって検証する)。そして、個人の精神は、こうした社会的材料を組み込むことによって形成されるので、社会的な合理化は個人としての欠如の感覚を生みだし、個人的な行為がその理想から発していると感じられる限り、罪の感覚に導かれるのである。

 このようにして、理性のなかにも「正当化」の必要が含まれる(それ自体罪の証しである)。美学的な領域で言えば、人に訴えかける目的で公的な材料が個人的に操作されるときに(「スタイル」や「形式」として)同じ傾向があらわになる。

 教会は理性の合理化を発達させた。「暴露家」はこの合理化を合理的に批判する手段を発達させた。つまり、教会は罪を土台にし、反教会の合理主義はこの罪を暴露する。それゆえ、教会の合理化は集団に重点を置いていたが、その批判は個人主義的になる(最終的にはマックス・スティルナーの非合理的な思考にまで達した)。従って、分裂的、反社会的哲学に達することなしに、罪を「完全に」暴露することはできない(このことは、思想家が形式上、それを動機として訴えることは慎みながらも自分の考えを推奨し、「訴えかける」という事実によって常に価値を損われる)。

 ヘーゲルにおける集団的なものの重視は、彼の「神学化」からきている。そして、マルクスの「後継者」の「先行者」として、ヘーゲルマルクスにおいても保持されており、その世俗化された語彙のうちに潜んでいる。そこには、集団主義的な暴露家が越えることのできない点が存在する(彼の行為を完全に個人主義的な暴露家との比較によって検証してみるなら――個人主義的な暴露家の方は、人々を説得するために公的な考え方を用いようとするやいなやその立場が損われる)。

 要約しよう。「自閉的な」個人は、精神に公的な材料を組み込むことで「社会化」される。この公的、「弁論的」要素は、「議論」、「証明」、「抗弁」の戦略に関して形づくられる。主張を「確認する」ための一つの方法である。主張をなすことで「将来に向かって生き」、それを「確認する」ことで「過去を考える」(引き算によって足し算を、割り算によってかけ算を確かめるように)。しばらくすると、我々はこの「過去を考える」を完全に意識のなかに組み込むことで、それを「同時に」使うようになり、新たな「将来に向けての」主張をつくることができる(新たな合理的証拠でもってそれを確認しようとするが、証明の大部分は主張の副産物として生まれるもので、それは数学者が最初に求めている結果を得、それからその結果に至るまでの道筋を「正当化」する公的な議論を組み立てるようなものである)。そして、この「証拠」(論理的なものであれ事実に関するものであれ)の使用が公的にでなく、個人的になされる限り、「正当化」は個人的動機となる。それゆえ、罪からの「自由」は公的意味合い、社会性からの「自由」であることもあろう。