白銀の図書館 19 モダニスムの空ーー安岡章太郎「ガラスの靴」(昭和26年)

 

ガラスの靴・悪い仲間 (講談社文芸文庫)

ガラスの靴・悪い仲間 (講談社文芸文庫)

 

 

 発表された年は私が生まれた年の10年以上前であり、そもそも大学生になるまでは千葉や神奈川の郊外に住んでいて、東京にでることなど滅多になかったので、共通の経験など考えられず、そもそもこの短編は特に詳細な描写があるわけではないので、特定の場所に結びついたものではないのだが、冒頭の文章からこれこそ私が知っている東京だというノスタルジアがあふれでてくるのである。

 

 夜十二時をすぎると、日本橋もしずかになる。

 ときどき高速度ではしり去る自動車のエンジンが、キーンと大げさな物音を遠くまでひびかせる。

 「どうしたの。」

 僕は汗ばんだ受話器をもちかえ、テーブルに足をかけて、椅子にもたれた背をそらせながら、ベッドの中からかけてくる悦子の電話にこたえた。

 「ああ、あたし、熊に会いたいな。あなた、熊がお魚かついで歩いてるの、見たことある?」

 「ないよ。」

 「つまンなそうに返辞するのね。熊っていいなぁ。熊は人間とお話できるんですって、ほんとかしら。」

 「知らない。」

 「だって、あなたの田舎は北海道だっておっしゃったくせに。そんなこと、知らないの?」

 

 

 「僕」は盗難と火の用心のために、猟銃店の夜番に雇われている。原宿に住んでいる米軍軍医クレイゴー中佐の家に鳥撃ち用の散弾を届けたときに、応対したメードが悦子で、主人夫妻が明くる日から三ヶ月家を開けること、照れたように笑いながら、よかったらときどき遊びに来てくれ、と言われることで付き合いがはじまる。「僕」から見ると、悦子は羊に似ており、どこか紙を食べている白い羊を思わせる魅力に乏しい女性だったのだが、いつとはなしに水草に足を絡めとられるように、彼女なしではいられなくなってしまう。とはいえ、それが恋愛感情に発展することもない。つくりつけの居間の椅子に座って、汽車ごっこをしたり、ドアの蝶番の部分でくるみを割ることに興じ、かくれんぼをしたり、お菓子を食べたり、真似事のようなキスをするだけなのである。家のものが帰ってくる日が迫り、ある種の共犯関係において、そうした戯れを演じていたのだと思っていた「僕」は、最終的な場面においても悦子に肉体関係を拒絶され、見知らぬ他者と対面していることに呆然とする。

 

 「ガラスの靴」が書き上げられたのは、安岡章太郎が30歳になったときだという。それ以前の安岡章太郎は、永井荷風に心酔して慶應大学に入り、下町で下宿生活を送り、清元浄瑠璃の文体を取り入れた作品を同人誌に発表、その後戦争が挟まり、物心ついたときにはすでに戦争があり、生の枠組みが戦争にあるから、戦場で死ぬことを当然のこととみなしていたのが生き残ることとなり、「暗黒の空洞」のような未来とともに取り残されて、生きる意味も目的もないなかで、他にすることもないので、小説を書いた。そうした小説のなかには、靴磨きに靴を磨いてもらっているうちに大蛸に呑みこまれるといった超現実的なものが多かったという。つまり、荷風伝来の江戸戯作者的な作品からモダニスム的な作品に至るまで満遍なく実践しており、本人は自分のことを「なまけもの」と称しているが、額面通りに受け取るわけにはいかない。

 

 いわゆる「私小説」の作家だとされているが、この作品などはモダニストとしての側面がより強くあらわれており、この東京に広がっている空は稲垣足穂の「一千一秒物語」の神戸の空とつながっているように感じられる。