断片蒐集 18 伊藤整
日本近代文学の五つの型
この作品[「舞姫」のこと]が、二十三年一月の「国民之友」の新年号附録に現はれたとき、それは極めて新鮮な印象を読む者に与へた。この作品はどこまでが事実であつてどこからが作りものか分らない。エリスなる女性は現実には狂人にならず、森を追つて来て、あきらめて帰つた。森は官吏としての地位を危うくした事がなかつた。太田は「浮雲」の内海文三のやうに良心的行動の故に免職になり、煮え切れぬ女性への執着に無解決に苦しみ続けることをしない。また「二人比丘尼色懺悔」の小四郎のやうに忠義と人情の板ばさみになつて義理のために自分を殺しもしない。また「風流仏」の珠運のやうに、現実世界の行きつまりを芸の魔力によつて離脱し、昇天することもしない。現実の世に生きて自分の属する社会と調和し、そこで出世をし、妥当な人間となるためには、人間らしさをどこかで切り棄てなければならぬ、といふ実生活者の生き方のイメージが、この作品に現れてゐる。良心の訴へと自己のエゴとの対立を社会秩序の中でいかに処理して生きるかといふ型は、ほぼこの四つに尽されてゐるのである。これらの型は、これ等四人の作家の生活態度の反映である。若しこれに「佳人之奇遇」の型即ち革命によつて外的秩序を破り、被圧迫民族の独立と社会善の樹立を企てる人間のイメージを第五のものとして加へれば、その後の近代日本文学の全作品は、ほとんど総てこの五つの型に類別することができるであらう。