ケネス・バーク『歴史への姿勢』 35

第六章 喜劇による矯正

 

 <両義性>という考えは、プロパガンダ(教訓)戦略についての主要な問題を我々にもたらす。我々は、社会的必然のみで物事を見る一方的な論点に欠けている、二面性を含んだ本質的に<喜劇的な>考えをとるべきだと考えている。それは完全に婉曲的でもなければ、完全に暴露的でもない--説得や協力を必要とする人々に対して<寛容な>姿勢であり、同時にうかうかと「利用される」愚直さには痛烈である。物質主義的な行為を超越的な「称讃の被い」によって韜晦する聖職者の婉曲語法は、経済的要因の働きを見分けるにはあまりになまくらな道具である。暴露家の語彙(その偉大な設立者であるベンサムによって花開いたが、彼は暴露の<方法>だけでなく、暴露の<方法論>を発達させたのだが、そのエピゴーネンたちは彼の天才を一世紀もの間利用し、その想像力豊かな発明を様々な「醜聞あさり」に官僚化したのだった)は、大いに正確に物質的利害をあらわにすることができた。実際、正確<過ぎた>と言える。というのも、<法の本当の狙い>についての説は、人間の動機を単純化する紛れもないオッカムの剃刀であり、法の「公平な」運用にも<特殊な物質的利害>が働いていることを教え、法律も他の財産同様個人的に所有できるのだと示してくれるのだが、完璧にやりすぎる。かくも人間の尊厳が低められると、我々すべての品位が落ちてしまう。

 

 諸動機の喜劇的枠組みはこうした難点を避け、行為が「弁証法的に」超越的部分と物質的部分、想像力とその制度としての具体化、「奉仕」と「略奪」の双方を含んでいることを示してくれる。あるいは、(150頁の脚注で述べたように)エコロジカルな均衡のもと物事を見るとき、喜劇的枠組みをとっているのだと言える。また、一方が肥大すると他方が萎縮することについても敏感にしてくれる。両者の共生には均衡の取れたエコロジーが必要なのである。*

 

 

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 また、あからさまに<物質主義的な>論争的-暴露的な枠組みは、意図しないままに「疎外」の働きについて我々の目を覆ってきたのだが、喜劇的枠組みへの言及は社会批評のまったく新たな領域を切り開くことになる。例えば、十九世紀のアメリカのように、個人が広大な公的領域を「合法的に」占有できたことを見ると、歴史家は憤然とする。(最も仰天する例としては、鉄道に対する助成があり、政府は個人事業者に鉄道敷設のための土地を<与え>、その同じ土地を担保にして、鉄道建設のためのお金を国庫から出したのである。)しかし、「公的財産」はより微妙な領域にまで拡がっている。社会組織もまた公的財産であり、個人的に占有することができるのである。

 

 例えば、鉄道のネットワークは旅行の危険を増大させる。すると、そうした危険に対する義務と保険が必要になる。<保険の必要性>は<公的な責務>である。しかし、<個人的な>保険会社が、それを<個人資産>として搾取するためにつくられる。こうして、十九世紀の事業家がワシントンにいる協力者を操作することで公的資源、土地、森林、鉱山などを個人資産としたのと同じくらい効果的に、「公的領域」が個人によって占有されることになる。この武器によって、公的な奉仕を行なうのに個人的な報酬を得ることができたのである。そして、こうした利害関係が組織化されると、同じようなサービスをより安価に行なおうとする政府の試みに対しても戦うことができるようになる(個人的な報酬を抜きにすれば、彼らももっと安価にできる)。保険への非難に対しては、圧力や広告などの手段があり、それによって個人による公的領域の搾取が保たれる。搾取に対する喜劇的分析は、このような精妙なやり方で公的領域の個人的な占有が続くことに対して、警戒を呼びかける。社会的な切迫や「善意の必要」がティーポットドームに埋蔵された石油と同じくらい<現実の>ものであることに注意を促す。(1955年の付記。ラジオ、テレビ、政府によって開発された原子力資源の個人使用なども明らかなった。)

 

 教会は人間を、将来における天上の市民と考えている。しばらくすると、そうした超越性を重視した不正確な評価基準で物質的関係を測ることは制度的に限界に達した。この過重評価から、正反対の過重評価が発達した。天上の市民である人間に対して、自然のなかの人間が置かれた。推論の効率化によって<ジャングルの人間>を得た。この喜劇的総合は、<社会における人間>を強調することで、この対立を「超越する」。アリストテレスの人間を「政治的動物」と捉える見方に戻ることになったと言えよう。

 

 我々が自分自身や隣人たちの行動に付する動機づけには、社会化の課程が含まれている。<なぜ>人々がそうするのか決定するには、我々を彼らと関係づけた上で手がかりを得る。それゆえ、動機に関する語彙は、個人的公的な関係を形成する上で重要である。ここで考えている諸動機の喜劇的枠組みは、人間の行為にある物質的要因を感傷的に否定することを避けるだけではない。他人の行動によって、やむにやまれぬ実際上の必要によってそうした要因が蹂躙されるようなときに起こる冷笑的な野蛮さをも避けるのである。

 

 他人にとられるような最小限の精神的な要素も持ち合わせていないなら、だまし取られる可能性のないことをはずかしげもなくさらしていることになる。<研究手段>として(永遠の職人である人間にとっては)喜劇的枠組みは、ロバート・ルイス・スティーヴンソンのお気に入りの姪の(そんなのがあったとしたら)ミドルネームを知ってることで満足するような、人々が貪欲に求めている「雑学」風の無駄な知識の積み重ねよりはずっとよい道具である。この種のことに精通しても(「知識」が力なら、その「しるし」である事実の積み重ねを得ることで代償に「力を得る」)傷ついた心を一時的に継ぎ合わせるだけである。成熟して社会的に効力のあるものを個人的に手に入れるには、より冒険心に富んだ装備が必要とされる。

 

 喜劇的枠組みは、人間を自分自身の教え子とし、欺されたり裏切られたりしても、その落胆を「経験」という名称の「財産」の欄にすぐさま移すことで「超越する」ことができる。かくして、我々はゲームのルールを変えることで巧妙に「勝利を収める」--巨大公益企業の会計士のように、帳簿をごまかすことによって、「債務」から「財産」をつくりだす。我々のような非力なものにとっては、自分なりのやり方で巨大な国家的存在に抜け目のなさを見せ、救済策を「民主化」し、末端まで行き渡るよう促すことが最大限できることではないだろうか。

 

 要約すると、喜劇的枠組みは、<行動している間にも、自分を観察する>ことを可能にする。その究極は、<受動性>ではなく、<最大限の意識化>である。人は自分の短所に気づくことで、自分を「超越する」ことができよう。不合理や非-合理を位置づけることで、論理的根拠を得ることができよう。*

 

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 こうした枠組みの材料を得るために新たな出発をする必要はない。それらはすべて我々のまわりにある。(我々はこの問題を徹底的に問うべきであり、そうでなければ、人間は、その言葉が集団的な考えの一員であることを主張できないなら、必然的に間違ったことを話している、ということになる。)喜劇的枠組みは精神分析的批評の最良の部分にある。フレイザーの『金枝篇』のような人類学的目録にもあり、それは原始的な人々の魔術的な浄化の儀式を示すことで、現代の最も実際的で、非聖職者風の行為にも同様の過程が働いていることを見つけだすのに必要な手がかりを与えてくれる。また、マキャベリホッブスヴォルテールベンサムマルクス、ヴェヴレンといった偉大な「経済精神分析家」の著作にも豊富に見いだされる。最も詭弁的な社会批評でさえ行なっている警告を見過ごしているわけではないが、偏狭な心の持ち主がある時代より前を「無知」と「迷信」の時代として切り捨てるように、世界の豊富な間違いの蓄積を<無駄づかい>したりしない。その代わりに、いわゆる「間違い」の伝承を、<真理の重大な側面>として、現在の力点を矯正するのに役立つ力点として大事にする。

 

 元々は婉曲語法的、あるいは暴露的な力点を置いてつくられた図式が、単にそれに対する我々の<姿勢>を変えることで、「喜劇的」枠組みに組み込まれることによって再利用することができるようになることもしばしばである。我々はそれを喜劇的な目的のために「割り引きし」、マルクスヘーゲルを翻訳したように、巧妙に翻訳し、神秘めかした方法を明確な目的のために「接収する」。この戦略は、ことわざや古くからの格言ばかりでなく、毎日色々な関係で使われている言葉、「大衆的」哲学にも適用される。かくして、我々は政治と経済の注目に値する言葉、我々の社会に働いている諸関係を手早く簡単に描きだした二つの用語法を組み込むことができる。犯罪の用語も、「徒党を組む」とか「命をつけねらう」といった巧妙な言いまわしに価値がある。

 

 「民主芸術」への賛辞を聞かれたことはあるだろう。「民衆批評」のことも考えるべきである。彼らの言葉を「美的に」洗練させようというのではなく、その「活き活きした」価値をくみ取ろうというのである。人々が主要なものとみなし、繰り返し出会うので名前が必要となる諸関係や社会的状況に関わる、集団的な動機づけの哲学と考えられる。ある語を限定された行動の領域から別の領域の行為を名づけるのに隠喩的に転化することは、ある種の「不調和による遠近法」で、更なる隠喩的転化を促す<方法論>を提案することで、より以上の「効率のよさ」を提案しているわけである。いまだ疑念を持たれているこの効率のよさは、正統的な語の意味範囲を全体性の観点にまで拡大することで、「エコロジカルな均衡」によって検証を受けることになる。

 

 受容の喜劇的枠組みは、翻訳行為によってしか完成に行き着くことはない。人間の生を、詩人が社会的関係を材料にして取組む「構成物」のようなものとして考える。構成、翻訳、それに「校訂」は、<批評>が最大限に発揮される場所である。

 

 喜劇的枠組みは、悪書や取るに足らない片言をも正当な研究対象とすることで、精神的な財産を殖やす姿勢である。歴史状況の革命が必然的なものとする新たな社会関係によって獲得された、新たな権威のシンボルへの移行に際しての困難を和らげるかもしれない。他者の生のあり方への順応が要求される者の、生の構成について重要な手がかりを与えるかもしれない。*

 

 

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 しかしながら、それは、現代社会の「疎外」に伴う退屈と空虚による荒廃を取り除くことはできない。生計を立てる必要から、人間は「自由意志」を使って信じられないような仕事、太陽が照っている間暗闇のなかで朽ち果てていくような仕事や、長い組織化された座業とファイルや記録といったなんの冒険心もない仕事にグロテスクに打ちこむことで身体や精神は歪み、巨大な上部構造が、単なる抽象的なシンボルの交換を操作することで打ち立てられていくのである。賃金の必要は、人をして「意志的に」、他人をかき分けてまでこうした「機会」をつかむようにさせるのだが、初期経済では、こうした仕事は奴隷や拘束された犯罪者でなければしなかったことなのである。この種の疎外(冒険の息の根を止め、その副産物として危険は増加した)に対して、喜劇的枠組みはなんら補償はできないし、するべきでもない。ただその過酷さを和らげるような状態を生みだす助けとなることにのみその価値はある。

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ファシズムブルジョア-商業主義的混乱、政府に権威を<委ねる>ことに伴う不本意な反英雄性からの脱出の一方途として捉える誘因は、ゲーテのような複雑な人間のナポレオンに対する姿勢にもあらわれているかもしれない。ナポレオンは<パックス・ロマーナ>的な征服によって、ヨーロッパを統合するものと見られ、一度征服された領域は、帝国の交流のネットワークという利点が認められていた。ナポレオンは小さな独占家たちを力ずくで従え、完全な「政治的独占」を成し遂げることで、新たなアウグストゥスたらんとしていた。「成り上がり者」であり、「権威を委ねられて」はいなかった。彼は「運命的な人間」であり、彼の支配は世襲の王の「権利」のように、神的で運命的な決定によって承認されていた。人間が決めるのではなく(その場合論争的な暴露に向かう)、天の投票によって支配者という役割が任命されたのであろう。特権をもつ者の側にある多くの方便のうちに、喜劇的な枠組みはそうした有利さを誘い出した要因を探り、その魔術の犠牲にならないようにその働きについて人々を意識的にするようでなければならない。それゆえ人々は自重しなければならず、王政は常に身近に迫っている。民主主義は、一度「マルサス的限界」にまで近づいてしまうと、<完全な洗練>によってしか維持することができない。限界に近づく機会が狭められると欲求不満が生まれ、それが素朴な罪の感覚となると、<総統>がおびただしい量のプロパガンダによって「英雄」となるのが最も簡単な治療薬なのである。

 こうした危機的状況に、キリスト教国家で起こった反ユダヤ主義は次のように説明することができる。歴史家は経済的な欲求不満と現実的あるいは象徴的課程との相関関係について長い間注目してきた。ユダヤ人は不況のときに最も活発に憎悪される。その段階は次のようなものである。経済不況は心理学的には一種の欲求不満である。欲求不満は心理学的には一種の迫害である。迫害は補償的に個人の価値や善良さを高めるが、この善良さは虐待されていると感じられる。この蔑ろにされた善良さは英雄と同一化することで「拡大する」。幼児の頃からキリスト教の教育を受けてきた者にとって、迫害された善良さの究極的なシンボルとは誰だろうか。「キリストである」。では誰がキリストを迫害したのか。ユダヤ人である。このようにして、補償的に、拡大された英雄(最初にして最も深い幼児期の印象にある英雄)としてできるだけ自恃の念を保とうとする結果、素朴なキリスト教徒は、経済的な原因の欲求不満の「象徴的な解決」としてほとんど「三段論法的に」反ユダヤ主義にたどり着く。

 もちろん、この仮定は、同じ結論に達したすべての人間が経るものではないだろう。中心的な「指導者」、「予言者」、その「忠臣」などにだけ当てはまるものかもしれない。そして、多くの人間は、強い訴えかけを感じてというより、社会的な便宜のために、惰性によって彼らの判断を受け入れたのかもしれない。物質的精神的報酬をあてにして、「時流に投じた」だけかもしれない。

 多分、喜劇的枠組みは、この種の、批判を間違った方向に向ける極めて重大な結果をもたらす「神秘化」の危険に対抗し、その神秘の正体を明らかにするのに最適であり、そのことを指摘すれば我々がつけた「喜劇的」という言葉の意味合いが明確になろう。

*2:*「不合理と非-合理。」多くの合理主義者は、我々の選択を「合理的」と「不合理的」のどちらかに限定することで、事態をより困難で近づきがたいものにしている。木が春には葉をつけ、秋には落とすなら、その行為は合理的でも不合理でもなく、非-合理である。多くの人間的過程は、非英雄的な読者が本のなかの英雄と「同一化」するといった心的なものであれ、非-合理である。そうした過程を「不合理」と呼ぶことは、その完全な除去を望むことである。しかし、我々は社会的統合が、そうしたことなしでも達成可能なのではないかと問うている。もしそれを単に「非-合理」なものだと考えるなら、その摘出のために手の込んだ技術を求める必要はない--代わりに、合理的な人間として、我々はそれを「見張り」、悪影響を蒙らないよう自分の身を守ればよい。うまく働いているときには、それを迎え入れたり、導いたりすることもできる。

*3:

*知識人の戦術。「前衛」としての知識人。それは特に立派なことでも卓越したことでもない--というのも、物事の性質上、紙の上の観念、青写真でしかない「完璧な世界」を支持することは、実際的な完璧に入り組んだ「不完全な世界」を擁護するよりも<容易>なことだからである。知識人は、社会が政策を実行にうつそうとする際に避けようなく起きる割り引きのあとで、更に値引きをしなければならない。「東洋風の値引き術。」売り手は十と言い、買い手は二と言う--最終的に五で同意する。売り手が五を求めるなら、三で同意されよう。

 しかしながら、知識人は正反対の極端を設定することなしに極端な政策を支持しなければならない。買い手が値切らないものだから、売り手も多めに要求する必要がないのである。

 喜劇的枠組みはこの政策を具体化する最上の手がかりを与えてくれる。第一に、あまりに道徳的憤りという便宜に頼りすぎることを警告する。世俗的な祈りにある道徳的憤りを見境なく「利用」する知識人ほど効率よく反道徳を生みだすものはいないからである。