ケネス・バーク『歴史への姿勢』 39

... 総合と分析

 

 著作そのものが象徴的な総合の行為である。本の作家は、無数の異なった要因が入り混じる個人的な状況のもとにある。彼独自の組み合わせは唯一無比のものであり、集中して書かれる本は、この唯一無比の組み合わせを要約したものである。しかし、彼の状況は唯一無比のものではあるが、他の人々の多くの<よく似た>状況がある。彼らの要約も、彼によく似たパターンを示すだろう。

 

 しかしながら、芸術作品が象徴的な総合の行為であるという事実そのものが、概念的分析によってそれを解体する者には難点となる。別の言い方をすれば、批評家がいかに「多元的因果関係」の理論に巻きこまれるものであるか、と述べることもできる。同じ現象は、互いに相反し合うことのない異なった要因で「説明する」ことができる。例えば、我々は悲劇の終結にある死や苦しみを象徴的におかされた犯罪の象徴的贖罪と「説明」する。また、別の機会には、悲劇は最大限の威厳を与えることで、いかに衝動を「推奨する」ことができるか述べる。(人間が死を賭してまで行なうことを示すことで、作家はその威厳を「証明する」。)次のように、純粋に「形式的な」説明を行なうこともできる。

 

 ある著者の作品は、思うに深く個人的なものだろう。本当に個人的なものを手放すには強い抵抗感が存在する(自分と同一視できるほど愛している者に与える場合は除いて)。例えば、フレイザーが述べている、本質的に個人的な財産である名前を他人に知られることに対する原始人の恐れに注目しよう。芸術作品とは、自分の名前を公衆に向かって複雑な方法で<与える>こと以外ではない。フレイザーは、髪の毛や爪などの部分が人手に渡るまいかと恐れを引き起すことも述べている。商業に対する原始的な抵抗もある(手作りによる原始的な商品は、最大限において個人の投影であるから)。逆に、交易が高度に発達すると、最大限に非個人的で、非人格的な商品になる(現代の工場で機械的に行なわれているように、奴隷の力を駆使して、ギリシャやローマで行なわれた量産)。

 

 かくして、「暗黙のうちにあった想像的なもの」が、公的な場で「あからさまに官僚化」されるとき、芸術家にはある種の「分裂」や象徴的な「死」が存在する。この死にゆく感覚は、葬送の結末に対する好みとなってあらわれるかもしれない--詩人は作品の最後に向かうに従い特に厳粛な気分になる。作品を仕上げる前に死んでしまうことに対する芸術家の恐れもあることはしばしば見て取れる。象徴的な意味では、彼らは死に<つつ>あり、懸念も不思議ではない。*

 

 

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 シンボルは、著者の両親、友人、国家、政党、職業、子供時代の記憶、未来への希望等々に向かう姿勢を超越的に融合することができる。こうした多様な要素を分析的に考えようとしても、進むべき「論理的順序」などは存在しない。一度にすべてを語るべきである。アルファベットという便宜なしに辞書づくりに取組むようなものである。

 

 象徴分析は、「法律家の摘要」のまとまりには達し得ない。例えば、「ニューヨーク」という主題を選んだとき、次にくるのはなんだろうか。「ニューヨーク」から「交通規制」に進むこともできる。あるいは、「ニューヨーク」から「農地改革論」に進むこともできる。あるいは、「ニューヨーク」から、「抽象化の三つの大きな中心であり、それぞれ財政、政治、大衆的ドラマの中心でもあるニューヨーク、ワシントン、ハリウッド」といった具合に進むこともできる。2,3,4といった各点を通り、証明終りとなるような「論理的進行」など存在しない。芸術作品は総合であり、無数の社会的個人的要因を一度期にまとめ上げるものなので、その分析は必然的に、あらゆる方角に一度期に拡がらざるを得ない。

 

 更に、総合的シンボルは概念的要素に<無限に>分割することができる。こうした無限の分析化の可能性は、トーマス・マンに深い印象を与えたように思える--というのも、新たな批評的差異に行き当たるたびごとに、それが既に自分の小説のシンボルで例証されているのを見いだして驚いたからである。彼のように偉大であっても(多分彼は現代の最も偉大な小説家であろう)、自分に「擬似的な偉大さ」しか認めることができない。彼は、自分の小説を批評家の分析が自動的に生みだした副産物の賜物と解釈している。あらゆる行為は奇跡であり、「総合」は無限の構成要素に分解することができる。

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*制度的な具体化において想像的な「神秘」が受け渡されることに伴うこの「象徴的な死」によって、芸術家は「古い自己を残し」新たな「段階」や「局面」に発展していくよう促されるのであり、しばしば作品そのものが死と再生(自己同一証明の変化)の儀式となって発達を急きたてさえする。社会的関係の不安定さが原因となることもある。例えば、ゲーテはこれまでの生涯のすべての要素を作り替えることで経歴の新たな局面の仕上げをする傾向があった。それゆえ、別の女性に忠誠の対象を変えることにおいて、それぞれの女性は性的な領域における新たな局面を完成させる働きをした。また、エドマンド・ウィルソンボヘミアについての小説『私はデイジーのことを思った』で、女性の主人公がしばしば死の感覚をもつことに言及されていることに着目することもできる(異なった恋人に愛情を持つたびにそう感じ、恋人は彼女にとって別の「世界」や「人格」を体現している)。

 このことは、ランケが芸術家の「死の衝動」について語るときに、追い求めていた要素かもしれない。これは「死の<衝動>」としてではなく、(<生>と見合った)<死>と捉えるべきである。我々に「死にゆく生を生きる」ことを勧告した聖人は、明らかに、十九世紀ロマン主義の芸術的社会的道化の役割に従っていた。少なくとも紙の上では、十字架を担いながら世俗的に成長し、新たな人格を得るごとにそれを特殊な位置、特別な仲間たち、物質的繁栄あるいは貧困、権威シンボル等々で具体化する作家を思いえがくことができる。現実には、この「不完全な世界」ではそうした美学の「化学的純粋性」は問題外だが、紙の上で可能性を考えることはできる。

 作家は常に、過去の諸段階において蓄積された制度的要素の吸引力によって、比較的安定している。市民の役割によって積み重ねられた拘束力のある諸関係が完全な不連続性から彼を守る。こうした理由から、我々が<抽象的に>考える化学的純粋さは、あからさまにロマン主義的価値基準によって生活している者を除いては、遙かに遠いのである。そして、この「理想」からのずれは、欠点ではなく、利点と感じられる。