ケネス・バーク『歴史への姿勢』 42

... 儀式の主要な構成要素

 

 ある作品の組織は、権威の「主要」シンボルとの関わりにおいて考えることができる。作品はある種の儀式であり、詩人は権威を受容するか拒絶するか目録づくりを行なう。

 

 にべもない拒絶が象徴化されるなら、多かれ少なかれ明確な反権威の輪郭が描かれるわけで、十九世紀の多くの詩人たちのように、権威の「実際的な」枠組みを拒絶し、代わりに理想的な「美的」枠組みを置こうとすることにもなる。

 

 受容の要素が優位を占めていると、詩人は、「悲劇的な両義性」によって自分と枠組みとの不調和を埋めようとし、自分の「犯罪性」を表現すると同時に、象徴的な罰を通じてそれを追い払う。

 

 成熟した成人の権威シンボルには、教会、国家、社会、正統、職業といった知的、哲学的概念が含まれている。それらは主に「法廷的な弁論」に関わっている。しかし、それらに<没頭>すると(作品の体系的な選択がそれを必要とするのだが)、彼はそれを経験の深い部分での感応とともに統一化するよう促される。それらは幼児期の「前政治的な」時期にも見いだされる。基本的なもの(テーブル、椅子、屋根裏、地下室、食物、排泄物、動物)を扱い、独特の感覚(異なった声の性質、雨と風の音、窓ガラスに湿った雪があたったときの鈍い音、暑さや寒さ等々)を感じ、「発生期の」出来事(事故、病気、クリスマス、遠足、夢)を経験し、親密な関係(両親や親戚、子守り、教師、聖職者、医者、警察等々との関わりで、権威との関係の最初のあらわれである)をもつことにおいてである。

 

 誠実さがまったきものであれば、純粋に法廷弁論的な事柄を象徴化しようとしているにしても、詩人が、前法廷的、前政治的な(「自閉的な」)情報レベルにまで「象徴的退行」を行なうことは必然的である。純粋に社会的な権威シンボルとの関わりは、詩人がそれとの関係において作品を形づくるときに、自分の家族で経験したパターンの痕跡が見いだされることになろう(例えば、彼の王、神、哲学は、そのシンボルに彼が賦与する「性質」が両親に似たものとなるかもしれない)。

 

 自閉的な場所に法廷弁論的な意味が生じると、象徴的父親殺し(拒絶が最重要な場合には)や、象徴的去勢を伴った近親相姦への恐れ(受容が最重要な場合には)のような構成要素が入り込む。そして、大人としての責任に自らを適合させようとする「超越」の儀式は「同一性の劇的な変化」を含んでいるので、再生を象徴化する際には象徴的な退行が起きるのである。

 

 同一性の変化は(彼は以前と同じ人間でありながら新たな人間でもある)、それに応じて多大な複雑さをもたらす。彼は「隅々まで見渡す」。「眺望の視点」を与えられた「予言者」である。その視点の正しさはここでは考慮する必要はない。その存在だけを確かめればすむ。それは、彼を以前の彼より「賢くする」か、あるいは「より愚かに」する--いずれにしろ、彼の作品が枝分かれをしていく基礎を形づくる。かくして、マンの小説では、ヨゼフは穴のなかで生れ変わるまでは「予言者」として必要なものを身につけてはいなかった。

 

 再生は、詩人が法廷弁論によって示唆される必然を受け入れようとする儀式であるので、社会化の過程だと言える。それはまた、退行による「母体回帰」を含み、「防御壁」が「監禁」になるまで成長した胎児の「最初の革命」が含まれている。それゆえ、こうした儀式を調べてみると、「穴」のようなシンボルは母体への象徴的な回帰であると同時に、母体からの回帰でもある。

 

 成人は母親に性的な無経験な子供ではなく、愛人として回帰しうるので、そこには「近親相姦の恐れ」が含まれる。母親と父親との二極の関係に巻きこまれ、忠誠を誓う権威シンボルの転換は象徴的な両親の殺害に等しいので、同性愛(現実のものであれ象徴的なものであれ)が生じることもある。象徴的違反への罰として、「中性」といった意味合いでの象徴的去勢が行なわれることもある。「中性」はまた、儀式による同一性の変化によって「両性具有」といった意味合いをとることもあり得る。(同一性の変化を象徴化するのに最も根本的なのは、性の象徴的変化である。ワグナーの『トリスタン』で新たな愛の始まりを告げる最後の言葉が女性の独唱なのは、この象徴的な性の変化をあらわしてはいないだろうか。)

 

 オイディプスは、自分の違反を知ったとき、自ら盲目となった。同一性の変化は盲目との関わりで、あるいは、視覚的現象への強い働きかけとなってあらわれることもあろう。マンは、ヨゼフが穴のなかに落ちたとき、片方の眼を駄目にする傷を負ったと語っている。サイクロプスという怪物は(ギリシャの合理的観念の敵対者だが)一つの眼しかなかった。

 

 眼は諸感覚のなかでも、「最も距離の遠い」ものである。味覚や触覚のような直接性に欠けている。それらは脳の突出部と呼ばれている。我々は観念を「把握する」と言うが、より頻繁に言うのは「見てとる」である。科学者や哲学者の書くものは「視覚的な読解」に向けられている。ほとんど<グラフ>の引き延ばしでしかない場合もある。成人の定位や視点の取り方は主に観念に関するので(「法廷弁論的な」もので成り立つ)、観点の転換は眼の働きに関係した形象によって象徴化される傾向にある。

 

 視覚は、触覚と比較して「疎外」の性質をもっている。同様に、哲学的な観念(抽象)は疎外の性質をもつ。かくして、物質的社会的交通を規制する、広範囲にわたるシンボリズムの公的な上部構造には帰る場所のない要素が存在する。詩人は帰るべき場所を「取り戻す」べく働いている。

 

 他方、一度生じると、それ独自の現実性が生まれる。それとともにいるのが最も居心地がよく、すべての才能をその官僚化に費やすようなこともあり得る。かくして、国際的な銀行家は、全精力を上部構造のシンボルの操作に費やす結果、生の根底的な現実をほとんど忘れ去ることとなろう。そして、そうした涸渇を「母親」や「故郷」への信仰告白によって緩和しているのも間違いない。彼の職業は、公的にあらわされているよりも多くの意味合いを含む「容器」となる。

 

 これは彼にとっては許容できる解決であろう。疎外による完全な破壊からは守ってくれる。「先へ進む」ための「後からくるもの」である。しかし、これは経済上の必要によって帳簿をあずかり、書類を整理している者に同じような充実感を与えるものではない。彼らも別のやり方で、世界を「取り戻し」、「疎外」によって奪われた領域を獲得しなければならない。それは、服従すべき権威シンボルの転換によってなされる。「ボス」が「父親」であり、忠誠を捧げ、忠誠を示すべき相手である。しかし、彼とともに世界を取り戻そうと望むなら、彼に取って代わることが考えられることとなる。ここで彼らは「裏切り」を働くこととなる。再び、我々が要約してきた多様な葛藤とともに、受容と拒絶を含んだ儀式への刺激が生じる。

 

 過去から蓄積された、そして現在の実践に関わる法廷弁論的な要素は、疎外の「美徳」とともにその「悪徳」を提供する。こうした豊かな記録を調べてみることで、我々は「他人が我々を見るように我々自身を見る」ことが可能になる。ここに「人間的自由」の基礎がある。まず会話によって与えられる道具によって、法廷弁論的に自らの徴候を観察できるようになる。

 

 そして、我々は<言語>に達する。思想家が言語学的範疇の再組織化の<やり方>を学ぶように、「地口の方法論」に達する。我々が斟酌してある語を文字通りの意味から比喩的なあり方に移行させるように、それは本質的にメタファーによって行なわれる。ここから、我々は抽象的思考の「死んだ隠喩」や「混合された隠喩」に進む。経営会社の上に持株会社が打ち立てられるように、抽象の上に更なる抽象が立てられる。それは驚くべき近道である。高度な数学のように簡便な伝達を行なう。複雑さを素早く容易に定義することができる--それなしには我々は個々の複雑さを曖昧に感覚することができるだけである。それは感覚と幼児時代の直接性の遙か彼方まで我々を運んでくれる--それゆえ、詩人はそれを取り戻そうと努めるのである。

 

 新たな観念は新たな発明である。発明家にとって発明が充分なものであるように、「先へ進む」ための「後からくるもの」として「獲得される」。他の者はまた新たにそれを獲得しなければならない。さもないと物まねの鸚鵡(アカデミズム)に終わってしまう。疎外が始まる。

 

 詩、批評、詩。人は詩人として生まれる。批評家としての社会的な装備を身につける。自分の経験についての批判的記録を獲得する限りにおいて、詩人にして批評家となる。

 

 詩人であり批評家であることで、人は行為するとともに行為を観察する。この観察によって、彼は自分の行為を他者との関係において成熟させていく。

 

 詩人として、彼は「総合的」である。象徴的な統合によって事物をひとまとめにする。批評家として、彼は「分析的」である。離れているものを新たな方法で推論によって集め直すことができる。それが彼の「遠近法」であり、他者の遠近法が残した記録と可能な限り調整を行なって成熟させることができる。彼の「行動」は、それ以上のことができない限りにおいて、「受難」でもある。それは「重荷」でもあり、できる限りのことでもある。それを越えたところでは、断念や、卑下や、神秘化するしかない。

 

 芸術、批判的記録、他者、自分自身を見ることで、「診断」でいう心気症の気質を発達させる。「経験の一部とみなす」ことでそれを打ち負かす。そして、詩人と批評家とを同時に働かせることで、詩的なシンボルと批評的な処方を発達させ、現実の重要な要素を(特に社会的な諸関係の喜劇的な批判に関わる)把握し、それに向かい利用できる姿勢をとることを可能にするのである。

 

 自分自身を観察することができる批判的分析の材料は、特に、合理性が科学の方法(テクノロジー)や科学の方法論(哲学)にまで強力に官僚化されている場合、非常に豊かなものになる。記録を集めるだけ集めて、それを用いないというのでは、「文化的な破壊活動」だと言えよう。それゆえ、分析材料を前にしてのなすべき、そしてなすことのできる「道徳的責務」が我々には開かれている。

 

 信じられないような理由によって、エリザベス朝以後、世界は沈滞化し、シェイクスピアのメタファーに戦略的に含まれていた批判的概念的要素以上のものを現在見いだすことはないだろう。彼の総合的行為に含まれる過程を言語化する必要がある。我々の「アジア的沈滞」はそうした形式をとることとなろう。新たな必要性によって、こうした「優雅な」仕事だけをしているわけにはいかないこともある。しかしながら、こうした新たな必要性は、最大限の分析的努力を必要とするものである。というのも、テクノロジーそのものが分析的な世界を生みだし--分析以外の道具によっては必要とされる正確さを得ることができないからである。他方、この分析は、総合する<姿勢>を実体化する限りにおいて、<統合的な>ものである。

 

 我々はいまに至るまで、アルファベット順を無視した辞書を書くような姿勢で、総合化の分析的な実体化を行なおうとしてきたと言える。続いては、予備的な「生半可な」方法から、我々が枢要だと考える幾つかのことがをアルファベット順に並べ、それについて試論を述べることに移るとしよう。我々の辞書は、要約と更なる発展とを同時に行なおうとするものである。