ケネス・バーク『歴史への姿勢』 43

.. 第二章 中枢用語の辞書

 

... 疎外 alienation

 

 マルクスから借りた用語で、彼はヘーゲルから借り、ヘーゲルディドロから借りた。*人間がなんらかの理由によって、世界を<根本的に不合理なもの>と思い、それゆえ世界を「所有」することができなくなった状態を示すのに使う。疎外には精神的な側面と物質的側面とがある。「プロレタリアート」は、社会が「標準」と定める「物品」の所有を阻まれているなら、物質的に疎外されている。この剥奪によって、その目的の正当な根拠が疑わしいものとされるときには、「精神的に」疎外されている。

 

*1

 

 新たな根拠のある目的への忠誠を形成することで「世界を取り戻す」こととなる(そこには「空白期間の欠点」がすべて含まれることになるが、それについては権威シンボルとの関係で論じた)。病的な状態にある構造から物質的利益を受けとっている多くの者でさえ、社会の合理性についての信念を失うと遊離してしまう。かくして、物質的には報酬を受けているが、精神的には疎外された貴族たちは、新たな根拠のある目的を呈示した百科全書派に友好的だった。そして、物質的には潤っているが、精神的には疎外されたブルジョアたちは、程度の差こそあれマルクス主義の資本主義批判に屈する傾向にある。

 

 現在行き渡っている所有関係の「利害」について特に意識的な者たちの、教育に対して高まる抵抗は、知識が自分たちの階級の精神的な疎外の過程を促進するという事実についての非常に正確な認識から来ている。自分の子供たちが資本主義的秩序の「合理的根拠」についての信念を「奪われ」、同じように痛烈に父親たちを追い出す危険がある(彼らは子供たちの忠誠についての「諸権利」を否定される)。こうした悲惨な「デフレーション」は、議論されている問題そのものを「合理的なもの」とする用語法によってのみ心理学的に「和らげる」ことができる(和らげられ、和らげられるべきである限りにおいてだが)。

 

 ブルジョアの理想的な「自由」は、農奴が共有し使用していた「地所」を疎外する「権利」の上に成り立っていた。財産の疎外のために戦う、勃興する商人層は、封建時代の慣習による承認によって無契約のまま使用されていた土地を引き離した。疎外の拡大は社会に大きな<流動性>を与え、それには厳格なイデオロギーでは可能でなかった種類の概念的可動性が伴わずにはいなかった。

 

 疎外についての我々の注釈のモットーとして、新たな価値基準が社会体制に次々と触手を伸ばしていった時期に著作した作家のテキストを借りることができる。『お気に召すまま』の一節である。セリアの友人であるロザリンドは、貴族であるセリアの父親の命令によって、無理やりに出発させられる。セリアもまた逃げだそうと決心するが、彼女の逃避行は封建的財産を失うことを意味する。嘘の身元で本当の身分を隠すため、別の名前を選択する。

 

ロザリンド:でもあなたをなんと呼べばいいかしら。

セリア:いまの状態を示すようななにか、そう、セリアではなくアリエナAlienaだわ。

 

 

 官能において補償される部分が多くなると、一般的には、社会の目的に対する合理性への信念が失われる。人々は、感覚だけが与えることのできる<直接性>によって疎外と闘おうとする。強い社会的熱狂のある時代は、社会的枠組みの論理が支配しているので、どこか清教徒的である(例えば、いまのロシアのように)。

 

 特に、現代の産業プラントを運営するのに必要なテクノロジー会計学、抽象化という非官能的な要素が広範囲にわたって拡がった世界では、極端な社会的熱狂を和らげるためには補償として官能性が使われるように思われる。こうした熱狂は、生産プラントがほとんど完成している産業的社会主義においては軽減されうる。そうした完成が遙かに先の資本主義下でも、資本主義の合理性についてのシニカルな不信があって軽減される。かくして、資本主義の道徳性は金銭の構造と一体化しているので、インフレーションの時期は常に強い官能性があらわれる。エロティックな文学はある種「非公式な決議論」としてふるまい、テクノロジーと財政とは反対の抽象により、同じように疎隔され抽象的な官能的「祈り」によってたるみを引き締める。

 

 官能主義による補償的な直接性は、通常、逆説的な定式でもって始まる、つまり、「我々の<文章>は淫らだが、我々の<生>は純粋だ」と。しかし、姿勢というのは発端における行為であり、逆説的な要素が最終的にこの定式から抜け出てしまうと、生と文章とは同一になる。逆説は移行の時期である。しかし、逆説家がそのままにしておいたところで他の者がなにかを打ち立て、それを発展させると、その「後続者」は異なった体制にならざるを得ない。<首尾一貫した官能性>(形象と生双方においての)は、「先行者」である<逆説的な官能性>と適合した「後続者」である。

 

 純粋な官能性が、今度は、「先行者」となると、それに見合った「後続者」としてサディズムに赴かねばならなくなる。しかし、通常、直接性を取り戻す手段としてサディズムが必要と感じられるような段階にまで疎外が進むと、その他のサディズムへの刺激をつけ加えることを嫌悪する数多くの「論理的根拠」もまた存在する。

 

 「逆上による攻撃性」は、権威のしるしと手段をもったより「文明化した」人々の帝国主義的な支配のもとにあった未開民族が被った疎外への反応である。侵略者の権力は、伝統的な枠組みにある人々の信念を破壊し、所有関係と社会的な禁止が新たな枠組みと和睦することを妨げる。

 

 疎外は次のようにして文学に入り込む。ある生産のパターンは、それに対応する作法のパターンを形成する。こうした作法は、文学的伝統のなかにスタイルとして投影される。そうしたスタイルの規範を保存することで自らを形成する人間が生まれる。しかしながら、そうしていても、新たな素材が生じると生産パターンも変わらざるを得ない。それゆえ、作家たちがいまだに自らを形成するのに使う伝統的スタイルからは「滑り落ちてしまう」。

 

 「しるし」の問題もここでは働く。例えば、封建主義では、社会の目的の「合理性」は貴族のしるしのもと定められ、農奴は身代わりとしてそのしるしを所有することができた。封建制の最盛期には、そうした身代わりの所有に伴う楽しみを心理学的にだまし取るような下役もいなかった。しかしながら、最終的には、新たな生産方法の勃興がこうしたしるしの性質を変えた。全社会の目的としてその「論理的頂点」や「合理性」を具現することがなくなった。むしろ、奪われた者たちと<対照的な>所有者をあらわす、<他と著しく異なる>特権の容器となった。しるしは、かくして、ヴェヴレンなら言うように、「妬まれる」ものとなった。それゆえ、それを所有しようとする作家は、スタイル上での昇級を主張した。そして、スタイルに生命を与える生産パターンが崩れ去っていく限りにおいて、次第に制限され非現実的になっていくものに投資を続けていくこととなる。宮廷風の言葉づかいに少なからぬ投資をしていたシェイクスピアは、生産の過程において、新たな生産と所有の様式が(それに合った作法とスタイルが)自分のスタイルのあり方を危険にすると感じ、疎外の脅威に対して、所有物の転換(主に「悲劇的両義性」を使うことで)によって対抗したのだと思っている。*

 

 

*2

 

*1:*その系譜を辿ると教会に行き着くことは明らかで、教会から財産を譲渡することが「疎外」と呼ばれていた。いまの場合の最良の同義語は「疎隔」である。

*2:

最高裁判所の中心について現在論争になっているのは、心理学的な側面から見ると、疎外の問題ではないだろうか。

 例えば、構造の<合理性>とは人々に所有感を与えることである(合理性の与えられたしるしに<同一化する>ことができる)。民主主義国家ではそうした性質は<切りつめられて>おり、国家の政治を行なうものとして任命された傀儡が権威の頂点にある父親シンボルとしてあらわされる。(こうした要求は非常に強く、共産主義の演劇である『自由を我が手に』でさえ、若い煽動者は殺されてしまうというのに、劇の最後まで老人はプロレタリア運動の「容器」として残されている。幕が下りるときに若者たちの墓に無表情に立つこの「家長」は、「敗北主義」を「支持」に変えるのである。)

 我々はまた、老年が<報償される>べきだという(時代遅れの機械をスクラップにするように老人を扱うべきだという論とは対照的に)タウンゼント案の背後に疑似餌を認められる(その「合理性」の検証について)。潜在的にあるのは老人支配の「合理性」であり、最も原始的な部族にもある生の「論理」に従った「長老制」である。避けられない生物学的成長の曲線を論理化しているので、若者でもそれに「同一化する」ことができる。老年を脅威であるよりもむしろ、約束されたものとしているのである。

 さて、我々の民主主義においては、最高裁判所が家長夫制の属性を有しているように思われる(イギリスの民主主義では同じ「魔術的な」役割が王制に与えられている)。

 そして、現在の裁判所の構造が<現状維持>には有効であり、それを経済的利害のために「利用しよう」とする者には、立法府や政府の行政機関からの干渉に対して強い心理学的抵抗が存在する(それらは、民主主義的な代理人である、権威の傀儡とより近しいので、それほど「家長夫的」ではない)。こうした象徴的な要因に訴えかけることで、特に農民の間で大統領の提案に対する抵抗がある(この抵抗は、農業共同体の<家族>関係の強さによってより強められており、ポピュリズムの強まって以来裁判所の判断が彼らの利害に反対することが長い歴史として続いたにもかかわらず、裁判所を「父親」として承認するようになっている)。

 それゆえ、裁判所の威厳への攻撃は、我々の病的な経済構造がそれでももっていると感じられる「合理性」のしるしを攻撃するものであり、疎外への密かな脅威である。裁判所とはその決定で被害を被った者さえ共有し、そのしるしと同一化することで「株主」となる「容器」であり、「心理学的投資先」である。そして、こうした素朴で心からの対応をする実直な人々は、不安や我慢の限界によって「象徴的父親殺し」を演じようと思う限りにおいて、大統領の提案に同意することができるのである。そうした役割はプロレタリアートにはより自然で、それによって別の種類の家長夫制の象徴化がなされる(マルクスレーニンスターリン、あるいは母性的な側面ではクララ・ゼトキンやマザー・ブルア、--あるいは、現在、「非代理的権威」を代表する人としてはジョン・L・ルイスがいる)。