ケネス・バーク『歴史への姿勢』 44

... 窮地に追いつめられる Being Driven into a Corner

 

 道徳的に徹底した子供たちは、自分たちを「善」か「悪」かだと感じがちである。ちょっとでも正しいことをさせると、「完全な美徳」を手に入れたような感覚をもつ。ちょっとでも間違ったことをすると、極悪人にでもなったかのように感じる。彼らは「割り引いて考える」ことをしない。「等級」を認めようとしない。

 

 神学者は罪の「等級」とそれに見合った償いとを呈示する。霊的な貸し借りを記す天界の帳簿のようなものを発明した。初期のベンサムのように、あらゆる過ちに対して「量的に正確に等しい」償いを見いだせるような神学的構造を打ち立てた(量的にそれに見合うだけの償いを決定することができた)。これが最初の「道徳的算術」であり、ルネサンスにおいて、天界の帳簿が世俗化されることで完成を見た。

 

 救済策として、これは非常に有効である。絶対的な善である白と絶対的な不正である黒との間に過度の対立に、様々な色合いをなす灰色を導入することで、等級を作り上げた。この発明は、特に十九世紀の反定立的な思考法、「あれかこれか」のバイロン主義に見られる分裂病的傾向を和らげる助けとなったのは確かである。しかし、神学者会計学によって、良心の慰めを得るのに比例して、量の上での放縦と質の面での低下が生みだされる傾向がある。そして、早晩、この完全に合理的な構造は、文字通りの意味において「もうけの手段となる」。

 

 更に、教会の教えを<全体として>手つかずのままにしておく限り、面責を購入することができるようになり、その結果白黒の間のぼんやりとした部分は問題とならなくなる。そうでなければ、教会の基準に関する限り、再び幼児の頃の「完全な」悪に向かわざるを得ない。

 

 これが我々の意味する「窮地に追いつめられる」である。この状況は、僅かなものを拒むことが多大な拒絶となる「増幅装置」である。というのも、聖職者が、人間の社会関係におけるあらゆる重要な側面に関わる構造を打ち立てるとき、いかなる点においてその構造を疑問視することも困難になるからである。どの要素もすべてを巻きこむこととなる。それでもやり遂げようとすれば、始めは疑問に付さないでおいたことも含めてすべての要素を捨て去ることが余儀なくされる。

 

 時には、機敏な「決議論的拡大解釈」で問題を避けることもできよう。正統派の要求に満足に適合するように、自分の立場を言い換えることもできる。

 

 しかしながら、その人間のイデオロギー的革新に顕著な物質的利害関係が含まれているなら、更生の見込みは大いに減じられる。そのような場合、正統派は彼を破門する。そして、正統派は社会性に通じるようなあらゆる通路を「所有している」ので、破門によって否定主義の窮地に追われるのを避けようとするなら、正統派のしるしを盗み取った集団を補充しなければならない。その限りでは、彼の集団は、正統派の願いを使って自らの集団を性格づけているので、「論争によって救われる」こととなる。しかし、教義ができあがり、新たな正統性の基盤として聖堂を打ち立てるまでの「空白期間」に、全集団が「窮地に追いやられる」可能性もある。

 

 時折、ある人間が発言していると、聴き手がナチスのイデオローグが同じような発言をしていたと責めることがある。発言の働き方の違い、その<文脈>の違いはまったく考慮されないままにである。

 

 この種の「反駁」が「窮地に追いつめられる」過程を完全に例証しており、敵対者が誤って使っているからといって、有用な観念を捨て去ってしまう。この種の反論を聞いていると、九九の表を称讃するような変わり者がナチのイデオローグにいなくてよかったと大いにありがたく思う限りである。もしいたとすると、徹底的な反ナチス派は、算術まで非難する必要を感じたであろう。