ケネス・バーク『歴史への姿勢』 46

... 想像的なものの官僚化 Bureaucratization of the Imaginative

 

 この定式は、基本的な歴史の過程を「不調和による遠近法」で名づけたものである。恐らく、それは死にゆく過程を名づけたに過ぎない。「官僚化」Bureaucratizationというのは扱いにくい言葉で、恐らくは擬音でさえあって、その性格である状況を不手際に音声化している。「想像的なもの」には柔軟性、流動性、春めいた感じがうかがわれる。不調和な両者を組合わせると、かさばって、ほとんど発音できないような具合になる。

 

 ジイドはどこかで、必然的に可能性を限定することになるから、特定の可能性を実現したくはないと言っていた。可能性を「想像的なもの」と言い換えてみよう。<特定の>可能性の実行を想像的なものの<官僚化>と言い換えてみよう。想像的な可能性(通常はユートピア的なものとして始まる)は、言語と慣習、所有関係、政治の手法、生産と配分、同じ重点を再補強する儀式の発達といった社会的構造に実現化される。

 

 この「不完全な世界」では、想像的可能性が完全に官僚化されることはあり得ない。ゾンバルトが指摘したように、資本主義でさえもこの「理想的な」完全性に達していない。我々がすべてについての金銭的な平等を得、友人の間でのあらゆる物品交換が利益をもたらし、さりげない挨拶のすべてに至るまで値がつく(交通費と同じ程度には)ようになるまでは、資本主義は理想的に完璧になったとは言えないだろう。

 

 官僚化は一つの可能性に過ぎず、人間は<いかなる>歴史的結構であっても完全に適合することなどないので、我々は必然的に妥協を余儀なくされる。各体制は、ある要点を強調し、他を無視せざるをえない。制度的な体制は、その「意図せざる副産物」が本来の目的よりも強くなるに従い疎外の段階に近づいていく。疎外の割合は階級闘争の高まりに比例しており、それというのも、意図せざる副産物が印象的に、圧政的になっていくところまで達すると、病的な状態にある制度を維持することに「利害関係」をもつ階級の人々が存在しているからである。ここから、更なる疎外が生まれる--持たざる者は精神的な所有物さえ、支配的な権威シンボルに従う「権利」さえ奪われるのである。

 

 支配的な権威シンボルへの服従そのものは自然であり、健全である。それを捨て去ることは苦痛に満ち、当惑を引き起こす。持たざる者は忠誠を維持するために長く困難な闘いを行なう--しかし、事の本質は、制度的体制がそうした忍耐と従属を単に「利用する」ことになりがちである。結局、分派活動が組織化される(思想家たちは複雑な法廷弁論的な構造をあやつり、ある一定の方向に特に重点を置く)。しかし、権威シンボルを有する者たちは、支配的シンボルに従わないことで敵対者を非難する聖職者(出版社、教育者)を有することで、対立者を窮地に追いつめがちである。対立者は象徴的要素の幾つかを捨て、他の象徴的要素を「乗っ取る準備」をする。

 

 それが新たな集団性にまとまり、正統性の称号を得る方向に進む限り、否定的、悪魔的、党派的、崩壊的、「分裂的」な傾向は抑えられよう。しかし、その想像的な可能性が制度的な固定において実現されることが必要な限りにおいて、ユートピアから必然的に遠ざかることは明らかである。

 

 ユートピアを嘲笑する多くの人間は、制度的妥協が必要な「不完全な世界」があらわになるに従い傷つくこととなる。彼らは単にユートピアンの名を嘲笑するユートピアンに過ぎない。<正当な目的>の説は政策を理解する必要がある場合がある。この説によって、我々はそれが守る「利害」に注目することによって発言の表面的な部分を「斟酌する」よう忠告される。この斟酌の原理は、例えば、多くの社会主義の擁護者たちは、彼らの訴えにロシアへの攻撃を混ぜることで避難場所をつくっていることに注目するよう我々に教えてくれる。それによって彼らはごく一般的な資本主義者の反感を聴衆と「分かちもつ」ことでそれほど一般的でない哲学を主張することができる。彼らは「想像的なものの官僚化」に含まれる現実的な問題によって妨げられる必要はない。或いはあからさまにユートピア主義を非難することによって、聞き手と自分自身からその思考の根底にあるユートピア的パターンを隠すことができる。

 

 この概念(想像的なものの官僚化)とシュペングラーの文化と文明との二分法には密接した関係が認められる。しかし、いかなる時代のいかなる個人であっても、自身の成熟した「文明」を子供時代の「文化」から発達させなければならないということを心にとどめておくべきである。さらに、シュペングラーの図式では、歴史的変化についてあまりに神秘的な考えがなされている。文化と文明は歴史的な究極であり、ある時代には一方が支配し、別の時代には他方が支配するという図式は、目的について間違った哲学を形づくるものである。だが、「疎外」へと通じる副産物の蓄積が、ある時期が他の時期に較べて大きいことは否定できない。我々の概念は転化の方法を提示するものであり、それによってシュペングラーの図式は社会関係の喜劇的批判に有用なものとなるよう十分「斟酌」されるのである。

 

 現代の実験室においては、<発明>の手順そのものが(想像的なもののまさしく本質である)官僚化されている。ルネサンス以来、西洋は発明の<方法論>を蓄積し完璧なものにしていき、改良は日常的な手順で行なわれうるようになった。科学、知識は知恵の官僚化である。

 

 実験室の原理は次のように言うことができる。「あらゆる機械には牛の通り道が含まれている。つまり、機械のもともとの作り手が発明の際に具体化した部分がそれだけの理由で残っている。最上のものとして吟味され、評価され、判断されたうえで残っているのではなく、単に誰もそれを疑問視しなかったという理由で残っているのである。それが定式化されたこともあからさまに言語化されたこともなかったから疑問にされないのではない。例えば、もともとの発明者がある過程に往復運動を用いたとすると、改良は新たな往復運動を導入するという方向で進められるのである。抽象という「効率化」によってそれを<名づけ>さえすれば、基本的過程が変更できるかどうか自問することができるようになる。往復運動を<回転>運動に変え、<クレードル>から<車輪>に変えることでより効率的に変化するのではないか、と。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにしろ、批評と実験の「手がかり」、「手本」を手にするわけである。現状のままでは「牛の通り道」を守るだけであり、習慣という権威に基づいた秘密に敬虔に従っているだけである。

 

 我々の「不調和による遠近法」は純粋な概念の場において、「発明の方法論」と平行関係にある。それは遠近法の観点の「大量生産」を「官僚化する」。少数の「高貴な」思想家にしか手に入れることができなかったものを「民主化する」。<遠近法の価値を下げ、容易に手に入れられるものとする。>

 

 これにはごく一般的な質の低下が続かねばならないのだろうか。間違いなく。しかし、ある観点からの「低下」は、別の観点からすると「向上」である。計画的な不調和を民主化することによる低下は、抽象的思考にある雑多で生気のない比喩でさえもとにかく比喩ではあるのだと我々に思い起こさせ、概念の絶対的真理に対する信念を一掃することで、一般的の質を洗練し向上させる。

 

 相対主義に<困惑>しがちである者を、複雑な相対主義のなかで<居心地よくさせる>だろう。相対主義は、世俗的な祈りによる単純な法の命令で排除することはできない(その存在を言葉によって否認することで追い払おうとする場合のように)。新たに同格のものを相対主義の<下に>ではなく<上に>建てなければならない。こうした理由により、「地口の方法論」によって制度的に手に入れることのできるようになった大衆的な合理的地口の理解は、<社会的>向上としてとらえられる。この問題については「不調和による遠近法」でより詳しく論じることになろう。