断片蒐集 38 アウエルバッハ/小説から遠く離れて

 

 『ミメーシス』はホメーロスと聖書の比較から始まっているが、小説にはまだ遠い。この本は歴史や時間を見出すまでの文学論でもある。

予表論とその文学言語に与える影響

たとえばイサクの生贄のような事件がキリストの受難をあらかじめ表象するものとして解釈され、つまり前者において後者がいわば告知され約束されていて、後者は前者を充足する(figuram implere[表彰を充たす]とはこの意味である)とするならば、時間的にも因果関係のうえからもつながりのない二つの出来事に関係が−−水平な次元においては(時間的外延を表わすこの言葉をあえて使用することが許されるならば)理性によって確立され得ない関係が−−成立するのである。二つの出来事が神の配慮によって垂直に結び付けられている場合のみこの両者の関係は成立するのであって、神の配慮のみがかかる歴史的展望の企てを可能にし、その理解の鍵を与えてくれるのである。二つの事件の水平な関係、すなわち時間上、因果上の関係が失われ、「ここ」と「いま」とは現世の推移の一部をなすものではなくなって、たえず存在し未来において成就されるものとなる。厳密にいうと「ここ」と「いま」は神の前では、永遠のもの、恒常のもの、断片的な現世の出来事においてすでに完成したものである。このような雄大な統一性に立脚する歴史観は、古典古代の本質とは異質のものであって、これをその言語構造、少なくとも文学言語の構造の内部にまで立ち入って破壊してしまうのである。たくみに陰影をつけた接続詞と、その文章論上のたくみな配列と、念入りに仕上げられた時制をもった古典古代の文学言語の構造は、現世の空間上、時間上、因果上の諸関係が無に帰するや否や、すべての事件から上昇していって神に収斂する垂直の関係のみが意味あるものとなるや否や、全く余分なものとなってしまったのである。