ケネス・バーク『歴史への姿勢』 47

... 決疑論的拡張 Casuistic Stretching

 

 決疑論的拡張とは、理論的には古い原理に忠誠を誓っていながら、新しい原理を導入することである。教会が表向きは投資を禁じた法体系のもとにありながら、投資の拡大を許していることは既に見た。法律家は、決疑論的拡張によって、「法的虚構」の「世俗的祈り」によって「たるみを引き締める」。

 

 決疑論的拡張によって「もともとの原理」に表向きの忠誠を尽くすことは、明らかに道徳的堕落であり、それは新たな出発をとることによってのみ止めることができる。

 

 我々の意図においては、この言葉は法律に限定される必要はない。例えば、新たな傾向が最初に現れるときに神に見放された者という表現を与える「悲劇的両義性」の戦略にも適用できる。宮廷道化は、少なくとも劇においては、「職業的免除」を利用して、重要な考えを決疑論的に導入する。劇作家たちが描くほど哲学的な宮廷道化が存在しないとしても、劇作家自身専制的な公衆を喜ばせるものとして、しばしば同じような決議論を余儀なくされているゆえに、その役に共感を感じていることは間違いない。

 

 「隠喩による拡大」はすべてある面では決疑論的拡張である。言葉をある連想のカテゴリーから別のカテゴリーに「導く」という我々の提案した方法論は決疑論的である。この特殊な意味合いにおいて、「会社」の「頭」や「放送」の「ネットワーク」について語るのも決疑論的である。言語はまさしくその本性において決疑論的であるので、決疑論的拡張は可能なあらゆる「排除による支配」を越えている。できうる最上のことは、決疑論を<絶対的>で<恒常的なもの>とし、その働きを明らかにすることである。シェイクスピアにおいて、決疑論は絶対的で恒常的である。彼は手当たり次第に新たな「隠喩による拡大」をつくりあげることができた。連想のカテゴリーを歩くようなたやすさで横断することができた。彼の時代以降我々をとらえている死んだ隠喩(「抽象物」)の山はもともとあった流動性を固めてしまっている。公式に学問に関わっていない者の間にさえ、あらゆる種類の「アカデミズム」が生じてきている。我々はシェイクスピアが教えてくれたことに従い、それを概念化した「計画された不調和」による決疑論を提案する。

 

 例えば、我々の言語の本質上、対立する観念を一緒にすると衝撃を与える。<表意的>ではなく、<表音>だということもこの傾向を補強する。例を示そう。我々が表意文字を書くとしよう。その書き方において、「非合法なもの」は<絞首台>であらわすとしよう。「合法なもの」は<光輪>で示すとしよう。そこで、「法」を示す記号を発明したいとするなら、単に「合法なもの」と「非合法なもの」とを一緒にし、<絞首台-光輪>とすればいいのである。(エジプトのヒエログラフはまさしくこうしたもので、二人の犯罪者にはさまれたキリストの十字架をあらわしているようである。)こうした表意文字は、「法」といった概念が自動的に「対立するものを含む」ことを示している。しかし、我々の<表音>的表記はこうしたことをあらわにはしないので、冒険的な哲学者が長年の戦闘的な思考の結果として「あらゆるものはその反対物である」と発見するまで待たねばならなかったのである。

 

 或いは、「善」のしるしと「悪」のしるしがあれば、それを一緒にして「道徳」の記号を得ることができよう。しかし、我々の表音的な表記による「道徳」から出発するなら、<文法>によって考えを進めていくことになる。道徳性を「善-悪」としてとらえる代わりに、その音からはじめることになる。そして、欠如を示す音「非a」を頭につけることができるが--そこでは、「善-悪」ではなく、「道徳-非道徳」が扱われることになる。

 

 我々の言語はなにがしかでたらめである。対立する語を、それを結びつける「より高次の」抽象化なしに手にすることもある。「より高次の」抽象を手にし、そこに含まれる対立を探りもせずに、もともと完全に一つのものだと信じることもある。

 

 言葉に対する真に流動的な姿勢とは、こうした欠陥が感じられるときにはいつでも「決疑論」をとる用意のあることだろう。最終的な結果は、イデオロギーの厳格さがもたらす欺瞞的な心地よさはないだろうが、より堅固なある種の確実性が得られると信じている。

 

 読者には、なぜ我々が決疑論的拡張に多くの欺瞞生を認めた後に、にもかかわらず今度は好意的なことを言いたがるのか尋ねる正当な理由があるだろう。第一に、我々は分裂に向かう傾向は統合的な思考に帰ることによってのみ止めることができると信じている(その過度に単純な形は「党綱領」への固執にあらわれている)。そして、この過度の単純化は、今度は、決疑論的拡張の別名である<自由主義>によってただされねばならない。しかしまた。

 

 決疑論的拡張の過程では、常に<意識的な>注意に従っていなければならない。それのもつ方便(単に「より高次の」欺瞞、新たな慰めを与えること)は一方法を方法論にまで眼に見える形で転換することで超越しなければならない。一方法としての決疑論と方法論としての決疑論の差異は、神秘化と明快化の差異であり、戦略の隠蔽(ars celare artem)と戦略の記述(説明としての批評)の差異である。

 

 「支配」についての項で、なぜ我々は決疑論を排除するよりむしろ決疑論の方法論を明確にしようとしなければならないと感じるか示すことになろう。可能なら排除の方が望ましいだろう。しかし、世界はそうした単純化をするにはあまりにも複雑であるので、意識を高めることで「たるみを引き締める」ことを望むしかできないのである。