ディオニュソス的鷗外ーー中野重治『鷗外その側面』

 

 

 第二次世界大戦のあいだから、ほぼ20年にわたり、機会に応じ断続的に書き継がれたものであるために、首尾一貫した論考ではない。晩年の3編の史伝(厳密にいえば、『渋江抽斎』と『北条霞亭』のどちらを選択するかを読者に迫る)に鷗外の真髄を見いだし、その解明に徹した石川淳の『森鷗外』とは対照的に、史伝にはほとんど触れられず、初期から中期にかけての短編や、「独逸日記」や遺書など、文学としては雑嚢に入れられるものが論議の中心になっている。根底に流れているのは次のような心情である。

 

日本の民主革命のため、日本の文化革命の成功のためには、鷗外を、古い支配勢力の思想的芸術的選手として認めることが必要になると私は思います。言葉が適当でないかとも思いますが、鷗外を、日本の人民および日本の文学の最もすぐれた敵として認めることが必要になると思います。

 

 

 官吏としての鷗外もまた人並み以上の活動をした。宮内省や帝室博物館に関して、陸軍軍医団の編成について、東京医学会および日本医学会の組織の問題、政府の文芸政策、芸術作品に対する検閲の問題、革命運動に対する弾圧政策などについて献策し、大いに働いたが、それは日本の民主化のためではなく、民主化を抑えるためという理念に貫かれていた。鷗外論の多くは、文学者としての鷗外と官吏としての鷗外を切り離し、それらを混同しなかったことに鷗外の偉大さを認めるが、中野重治はそれを俗論として退ける。例えば、家庭内の葛藤を描いた「半日」がいつもと変わらぬ鷗外の冷静な筆致を保っていたにしても、それはその冷静な筆致そのもののなかに「人生にたいする鷗外の態度、問題解決の仕方の文学への反映」があるので、冷静な筆致であるから実生活の苦悶が文学作品に反映していないなどというのは、「がま口がふくれているから金があると主張するに違わない」(面白い例えで思わず笑ってしまった)。生活と文学が独立してあるのは、ある意味、当然のことであり、いかに優雅な生活を送っていようが、優雅な文学が生まれるわけではないし、文学が成功するか失敗するかは生活と単純な因果関係によって決定されるものではない。それでも、「生活と芸術との統一関係ということは、もう一つその奥のところで生きて働いている」。

 

 この奥のところで生きて働いている力を見てとる能力こそが鷗外の文学のなかに「嘆声」を聞き取ることを可能にした。そして、鷗外が「必然の悲しさで文学に」向かい、そこにおいて自らが受けた辱め、苦痛や不当な扱い、取り返すことのできない後悔を文学を通して復讐した、という独特な仮説にたどり着くのである。ニーチェ古代ギリシャの精神を、ホメロスにあらわれる造形的、建築的で透明なアポロ的なものと、ギリシャ悲劇にあらわれるような音楽的、統帥的で苦悩に向かうディオニュソス的なものに二分した。鷗外は自他共にアポロ的なものの騎手と認められていたし、自らそう自覚していた。中野重治はそこに一個のディオニュソスを認めたのである。後期に書かれた「森鷗外」という断章形式の最後は「七 勇気」と題されている。

 

 ただ、それにもかかわらず、鷗外を読み、鷗外の生涯を読んで行つて、わたしにあたえられるのがかならず精進の念といつたものであるのをわたしは感じます。それは、事実として、悪寒のようなものとしてわたしにひびいてきます。あの鷗外が、おのれを抑えて、勉強して、穴の奥へ奥へとはいつて行くようにして仕事して行つた姿は、ある条件とある態度との上での、ひとりの人間としての極限の姿のようにわたしには見えてきます。

 

 

 

 悪寒として、人間の極限の姿として見られているのは、ディオニュソス的精神であり、まさしくそれは私が鷗外にこれまで発見できなかった顔だった。