ケネス・バーク『歴史への姿勢』 49

... 交感 Communion

 

 社会において、常に働いているのは、共同作業のネットワークがやりとりされるシンボルのネットワークを伴う仕組みである。「交感」は協同的で象徴的なネットワークにおいて、共通の利害のもと人々が相互依存することを示している。芸術家はシンボル構造の操作の専門家である。一般的に、共有する構造の規範を再確認することでコミュニケートしようとする傾向がある。(ある規範を非難するときには、通常他の規範を主張することによってそうする。社会の価値を別の社会的価値と対置すれば、「排除」の姿勢こそとっているものの、社会の価値の「外側」にいるわけではないことになる。かくして、『民衆の敵』においてイプセンは、<孤立>の支持者であるストックマン博士を最初は<博愛>の人として描きだすことで、我々に彼への好意を持たせようとしている。)

 

 しかしながら、問題はより微妙になる。生産体制というのは必然的に過度の強調を必要とする。ある人間を過度に優遇し、ある人間を不満にしていくことになる。それゆえ、「この不完全な世界」において「完璧に近い」生産体制を想像することができたとしても、そこにはある量の抵抗と「逸脱」が存在するだろう。かくして、生産体制とは共通の規範だけではなく、規範からの逸脱も共通のものとしてもって確立する傾向にある。そして、社会が共有する潜在的な逸脱をシンボル化することで「コミュニケートする」芸術家もいるかもしれない。最初は、逸脱を表現すると同時にそれを象徴的に罰する「悲劇的両義性」を用いるかもしれない。革命的な価値はまずは悪漢、怠け者、子供、田舎者、馬鹿などに具現化されるというエンプソンの考察が示すように、「人を安心させる」ような装いのもと逸脱を導入するかもしれない。カミングスのような作家は、共同作業にとって必要な規範を補強することによってではなく、共同的な規範への抵抗を共有し、「コミュニケーション」することでこうした「逸脱」をほぼ完璧に扱っている。

 

 はっきりした情報を交換するためではなく、つながりを確立する容易な方法として言葉を交わすことを示す「交感的言語使用」というマリノフスキーの用語がある。決まり切った挨拶、天気についての話、健康についての礼儀正しい問いかけなどがその例である。より微妙な例としては、ここにいない友人を中傷するゴシップがあるが、それはいない者に対する悪意というよりは、瞬間的に仲間意識をつくりあげようとすることである。「共通の敵」をつくることで、暫定的な同盟を組む。先頃の戦争の欧州連合三国同盟に対抗するという共通の目的のために一時的に個々の相違を棚上げしたのと同じことをより些細な場面でしているのである。

 

 ソクラテスのイロニーは、恐らく、交感的言語使用を最も独創的に発展させたものである。疑問を投げかけることは、「交感的言語使用」を確立する見事な近道であるのは確かである。若い女性なら、男性に彼の計画を尋ねることでいかに容易に交感が確立されるか、ほんの僅か話すことですぐに発見するだろう。同じように、ソクラテスは、問いかけることで、最も<社会的な>行為をしていることは明らかである。しかし、ソクラテスはイロニストであった。単に質問するだけではない。質問<し続ける>のである。やり通し、<迫り>続ける。次から次と、問いの上に問いを重ねることで、彼は交感的言語使用を極端に迷惑な仕事へと変えたのである。実際、人々は彼を殺したいと感じた。実際、殺したのである。

 

 共感という<外見>が実際には排除として<働く>という複雑なひねりのもう一つの例は、「キリスト教的復讐」と言えるだろう。ある男が部屋に入り、なにかをテーブルに置き、出ていく。それが目撃されるすべてである。その行為は純粋に「中性的」である。しかし、A氏がその場におり、A氏はキリスト教的博愛の達人であった。彼はあまりに博愛に富んでいるので、男が部屋に入り、テーブルにものを置くという罪を<許し>始める。彼は哀れな男の間違いを共感に満ちた理解で説明する。そして、この効率的な博愛を示し終わる頃には、男に対して間接的に<数多くの非難を積み重ねている>こととなる。教会がこうした微妙な操作を<働かせている>限り(多くの深遠な例においては、人々はなにが行なわれているのかはかることができないのである)否定的思考傾向は避けがたい。