ケネス・バーク『歴史への姿勢』 51

... 手がかり Cue

 

 もしある男を英雄、或いはろくでなしと呼び、言葉通りを意味するなら、解釈によってその言葉の「道徳的重み」を探る必要はない。言葉の個人的な使用が公的な意味と対応しているから、姿勢は明らかである。他方、一見中立的でありながら、実際には隠れた重みをもつ言葉を使用することもできる。

 

 或る男がエッセイを書いている。議論を展開するために、必然的に中軸をなす言葉づかいを選ぶことになる。彼に<訴える>ところがあるために、ある言葉づかいを選ぶ。純粋に論理的な問題に関する限り、言い換える必要のある言葉もあるかもしれない。彼は微妙で個人的な「妥当性」のテストにしたがって選択をする。表面的にはそれらの言葉は中立的だが、統一的な彼の姿勢という共通の支柱があるために、有機的な相互関係において調和している。使用者が「科学的」、「中立的」と考えている言葉にさえ、その下に潜む感情的な意味合いを識別することができるような手がかりを得られるかもしれない。そうした位置づけを行なうことで、言葉を表面的に取るときに明らかになるものよりもより微妙な有機的組織を見て取ることになる。

 

 例えば、この本において、我々は「喜劇的枠組み」について多くを語ってきた。我々が「喜劇」の名のもとに支持しているのは、「ヒューマニズム」の名のもとに支持されてきたものと同じであるかもしれない。「喜劇」という言葉を選んだのは、幾つかの理由から、それが我々にとって「よりよい響き」を持っていたからであろう。著者がある語を「よりよい響き」をもっているから選ぶときには、その選択は聞き手にとってはすこしも当てはまらない「響き」であることもある。

 

 自分の名前の音節が(或いは、「イニシャルを気にする」たちならば単なるイニシャルでも)言葉に対する好感と嫌悪に微妙な影響を与えることがあり得る。この版では、この点についての幾分個人的な考察を除いた。「原則として」正しいとは信じているが、やや根拠が希薄であるとも感じられるからである。

 

 また、会話の起源を舌、喉、口の「身振り」に求めたサー・リチャード・パジェットの『人間の会話』についての考察も除外した。しかしながら、この除外は彼の理論に対する信用をなくしたからというわけではなく、いまだそれは十分に説得力があり、言語の「劇学的」理論と生理学の分野において完璧に適合しているように思われる。しかし、そこでの議論は、我々の目的にとって本質的な(『文学形式の哲学』12-17ページで説明したように)<文献学>と<詩学>との区別を欠いている。しかしながら、名前の魔術ということに立ち返り、言語という木に自分の名を刻みたがるものだという可能性を心に留め置くと、エジンバラのバークのように、科学と金銭への興味から、犯罪を犯すことで自分の名前を動詞に変え、エドマンド・バークに非難を浴びせる多くの者がその言葉を彼に結びつけることになることとは話が違うことを望みたいが、「『官僚化bureaucratization』という言葉を使うに当たっては、我々はそれを『絞め殺したいburke』と思っていた」とは言えるかもしれない。しかし、mとpの基本的意味合いには「音による身振り」があると論じることは可能である。「接触のm」(マンマmammaや聖なるoom)は音声による「受容」のあらわれであり、p(こわれたpuke、反吐spew)は基本的に「拒絶」を身振りであらわしているようである。

 

 音声的な価値をほとんどまったくといっていいほど欠いた慣習的な記号で組み立てられる記号論理的な語彙ではこうした地口は避けられているように思われる。しかし、本当にそれが成功しているかどうかは疑わしい。「根絶による支配」が不可能であるという我々の凝り固まった信念から、同じような操作がより微妙に行なわれているのではないかと疑われるのである。社会の至る所で、我々は徴候の<根絶>ではなく、<置き換え>を見る。複雑性が増すことで、それらは曖昧にある点から別の点へと逸らされる(利子生活者のような存在は、個人として残酷である必要はない。彼自身は親切であり得るが、利子をもらって生活するという背景にある体制は残酷な働きをしている)。記号論理的な語彙は、我々の地口をより深い場所に隠しているだけであり、より「斟酌」しにくいものにしているに過ぎないと我々は信じている。結果として生じる地口は、音よりもむしろ形の関連によって成り立っているかもしれない。

 

 ついでながら、シェイクスピアの酷い洒落にはもっと寛容な態度を取る必要があるだろう。単なる「民衆への譲歩」として無視してしまうのが一般的である。無遠慮な観客たちには道化役が必要だった。弁護者が言うところによれば、シェイクスピアは単に「税金を払った」に過ぎないのである。庶民に酷いくすぐりを与えることで、より精妙な想像力の働きを我慢できるようにしたというのである。我々はこれを疑う。調子の悪い語句で「酷い洒落」を出さないこともあるし、最も繊細な隠喩の操作において「精妙な地口」を交えないこともあるのである。酷い音だけの地口と精妙な隠喩による地口は同じ「物差し」の両極に過ぎない。彼の特殊な才能によって、全音階が使われることになったのである。酷い洒落がないところでは、同じ理由によって、彼の芝居の最も活発な部分がとらえ損ねられているとさえ言えるかもしれない。せりふの活気が言葉の調子に依存していると言いたいわけではない。最上のせりふは多くは調子に依らない部分である。我々が言いたいのは、地口から始め、彼はそれをどんどん<洗練させていく>ことができたということである。それを抑えることから始めたなら、更なる洗練もなかっただろう。

 

 この本の別の箇所で示したことだが、不連続性に注目することで手がかりを得ることもある(論理、主題、スタイルなどの重要な裂目)。戦略的地点(始まりや終わり)において発せられる形象の性質に注目することで手がかりを得ることもある。形象の<曲線>に注目することで手がかりを得ることもある(ある作品の一部から別の部分にかけて、或いは作家の経歴のある段階から別の段階にかけて形象の根本的な転換は「転向」や「再生」の過程を示しているかもしれない)。かくして、シェイクスピアが使う「野心」また「野心的」という言葉に対する姿勢は、舞台設定が封建的なものからブルジョア的なものに移る過程で(「救済手段」が「民主化」される)重要な変化を見せている。完璧な転換は恐らく起こらなかっただろう。変化のなかにも連続的な同一性はある。「生まれ変わり」でさえもとの性質の多くをもっているのである(戦士であるサウルがキリスト教徒になったときも、名前の文字こそ変えたもののキリスト教「戦士」だった)。

 

 

 『お気に召すまま』で人間の七つの団歌について語るジャックの言葉は、(誕生から老年での死という円環を完成させたものにとって)連続的な七つのアイデンティティを示している。彼が言っているのは、「階級闘争」といったいまの我々を悩ます歴史的な混乱はないにしても、身体的な変化によって、我々は年に応じて互いに相争う異なった役割を演じることを余儀なくされるということである。

 

  世界はすべてお芝居だ

男と女、とりどりに、すべて役者にすぎぬのだ。

登場してみたり、退場してみたり、

男一人の一生の、そのさまざまの役どころ

幕は、七つの時期になる。(阿部知二訳)

 

 続いて彼は、異なった「腺的環境」から生じる人格と、その「状況」或いは「動機」について簡潔に述べる。「赤ん坊、乳母の腕に抱かれて、みゅうみゅう、ぴゅうぴゅう」、「泣き虫、学校子供」(「嘆き」にはまだ成長が足りない)、「いろりのように溜息をつく恋人」(「形象」の項では、ストーブを性的シンボルとして論じている)、「怪しい御託を並べ立てる兵隊」(平和時における語彙から不釣り合いに出てくるゆえに戦争は下品なものとされるのだろうか)、「腹は見事に真円い裁判官殿」・・・「ごもっともなる格言や、月並み文句吐きちらす」(熟達の「弁論家」と言えようか)、第六の時期は「ひょろひょろの、スリッパはいた間抜け爺」・・・「ちぢんだ脛には、世界は大きすぎる」、最後に「第二の嬰児」・・・「歯なく、眼なく、味覚なく、何もない」。

 

 シェイクスピアはそれ以上を論じてはいない。過去のアイデンティティのどれだけが忘れられねばならないか、一つの役割から次に移るときに、どれだけ作り直さねばならないか。芸術における再生の儀式はこの問題を掘り起こす。ジャックの言葉から省かれている部分、移行の戦略こそが<シェイクスピア>の作品の本質を形づくっている。<彼自身の>劇は、一連の彼の作品である。「形象」の項の締めくくりに、こうした図式化で注目すべき「手がかり」について論じている。

 

 

 『二重スパイ』におけるE・E・カミングスについての鋭く周到な分析で、R・P・ブラックマーが指摘する点は我々の目的にとって最適なものとなりうる。言葉というのはイメージの名であるのだが、カミングスはイメージを呼び起こさない言葉を頻繁に発し、貯蔵している。その意味は、<表面上は>具体的であるにもかかわらず、<純粋に>象徴的、或いは抽象的である。

 

 例えば、詩人が恋人との享楽という連想を含むあらゆる文脈のなかで「花」という言葉を使ったとしよう。恋人との享楽が優美な靴、優美な会話、海辺での滞在などと連想をもつとすると、靴、会話、海辺での滞在を論じるときには、隠喩的に、花や花の属性について言い及ぶことになるかもしれない。或いは、恋人との享楽がある種の雨と結びついているなら、傘を、開いた花瓣と読むこともでき、或いは恐らくは、雨が落ちてくることは

 

花瓣-落ちる-落花

 

とも感じられよう。(これを「象徴主義的に」翻訳すると、「私にとって、雨は花瓣が落ちてくることである--それは雨が花瓣に<似ている>からではなく、雨が恋人との享楽を思い起こさせるからである)。

 

 この仮定では、イメージ上の或いは記述上の関連性がある。しかし、我々は更に進んだ段階を想像することができる。詩人は二人が愛し合った場所である家を思い、

 

家-この明るい色をした花

 

と言うかもしれない。素直な読者は誠実に、恐らく詩人は明るい天幕か何かを想像しながら家を「見た」のだと自らに言い聞かせようとする。しかし、実際には、この文脈におけるこの語はなんらイメージを指し示していない。ある<姿勢>を示しているだけである。「この家は、『花』或いはその連想で象徴化されるものに対する私の<姿勢>を示している--なぜ家が花に見えるかなどと問わないでほしい、私もそんなことは思っていないのだから--私は<イメージ>ではなく、<姿勢>としてこの語をつかっているのである。私の『花』に対する姿勢と呼んでもいい。お望みなら、私の詩のなかの手つかずの<登場人物>、詩が小説であるとして、スクルージとちっちゃなティムとを別々の人物にしておくようなものだと思って貰っていい」と言っているのである。カミングスが言葉のイメージ的(記述的)側面から出発し、純粋に象徴的(姿勢をあらわす)働きへと移っていく過程を明かすことで、ブラックマーは法外な想像力を用いることで、不連続性の知覚から「手がかり」を取り出す方法を例証している。

 

 

 哲学も詩と同様に、翻訳によってその多くの部分が失われてしまうこともあり得る。哲学的な言語の価値を<概念的な>働きにのみ限定し、それ以外の部分を単なる「惑わし」と見なすことは、部分的には、哲学の源であるプラトンアリストテレスギリシャ語との深い馴染みなしに勉強していることからくるのかもしれない。かくして、我々は現代の芸術家がアフリカ彫刻の外面的な部分だけをとらえるように、彼らの言葉の<外面>だけを取る傾向がある。例えば、「イミテーション」は「ミメーシス」の「正確な」翻訳では<なく>、ミメーシスの語調は「食物と母親」のカテゴリーに近い部分がある。かくして、概念としての「イミテーション」は「ミメーシス」との地口に含まれる「あらゆる意味の範囲を汲みつくす」ことはできない。賛意をもって二つの「m」を発音するギリシャ哲学者は、単に<概念化>しているだけでなく、<行為>しているのである。彼の言葉は<概念>よりは<踊り>に近いだろう。この踊りは、結局「成人の授乳」を芸術的過程として認可しようとしている。他方、「イミテーション」は半食分にも満たない。※

 

 

*1

 

 「事物は外見通りではない」という事実を見込んでおくべきである。あるものを見て、そこに別のものを読むことに諸方法がある。友人が自分について何かを言ってくれたときには、敵が同じ事を言った場合よりも斟酌することになる。言葉とは基本的に「なにが起きているか」を理解するものである。正確に勘案することで、<すべてが>使用可能になる。

 

 例えば、我々は諷刺や論争の限界について語る。そうした形式をどう斟酌するか知り、どの道を取ると窮地に追い込まれるかあらかじめ見越しておき、ある文ですべてのことを一度には言えないのだと理解していれば(急いで書いている人間はすべてを修飾することなどできはしない)、ことがを正確に斟酌し、正確に使用することができる。もしある人間が「賛成」といったとしても、なんの問題についてそういったのか知るまでは彼が「イエスマン」かどうか結論することはできない。しばしば一文たりとも額面通りに受け取ることができないこともある(語り手がそれを語るときの伝記的、歴史的文脈を知るまでは「その意味を理解する」ことはない)。

 

 シドニー・フックはこうした「斟酌」によって、明らかに「矛盾する」マルクスの発言について価値のある分析をした。ジョン・デューイアリストテレスの「模倣」の概念について述べる際に見事な斟酌を示した。アリストテレスは模倣によって、「自然に向けて鏡を掲げる」ことを意味したのではないと知ることになろう。彼が意味したのは、詩人は自分の集団の文化的規律を再生産するときに「模倣する」ということである。例えばポリュペーモスのようなこれまでなかった人物を作りあげるとしても、その造形が自分の文化に行きわたっている典型的な姿勢のパターンを忠実に具体化している限り「模倣している」ことになろう。プラグマティックな方法が斟酌にあっては特に有益である。それは、教説を額面通りに受け取るのではなく、その教説が社会的文脈に解き放たれたときにどう振る舞うかを観察することによって意味を得るのである。<正しい目的>は割り引いて考えられる--実際、ベンサムのように、割り引き過ぎることさえある。

 

 しかし、こうした「斟酌」によって我々はマルクスの「弁証法唯物論」の背後にある真の意味を理解することができる。厳密な理論に従えば、「<精神的な>要素と<物質的な>要素には常に<相互作用>がある」という主張は、両者のうちでの「本質」を定め、唯物論を出発点にする根拠を与えるものではない。定義上、両者が同時に始まることであるから、「相互作用」に「出発点」などない。「それはAかつBであるが、単なるAである」というのは文字通りナンセンスであろう。形式的には、「二元論的一元論」を意味するが、それは不可能である。<唯物論>を本質として選択するのは「論理的」ではないが、「社会学的」ではある。言葉はスローガンであり、簡略な理解を得させる。教会もまた精神的要素と物質的要素の相互作用を認めていた。そして、教会はこの認識を操りながら、「力を奪ってきた」。教会が「精神」を本質として取ったので、マルクスはその対立物を強調したのである。マルクスは新たな出発を切るために同じ洞察を復活させる方法を探していたのである。かくして、我々は社会歴史的基調のなかでの振るまい方を考慮に入れ「斟酌」しない限り、彼の哲学的発言の十全な意味を得ることはない。

 

 こうした言葉を形式主義的な対立だけによって論じる、過度に物堅い哲学者たちは、あらゆる思考はナンセンスだと発見して自ら不毛に陥らざるを得ないことになる。愚直な人間は哲学的シンボルを額面通りに受け取る--論理実証主義者は単にこの愚直さを逆立ちさせたに過ぎない。どちらの極端も、どう「斟酌」すべきかを知らない。愚直な人間はシンボルを100パーセントのものと見る。記号論理学に熟達したものはゼロと見なすのである。ゼロは斟酌の結果ではない--皆殺しである。我々は「みな同じ船に乗っている」のであるから、皆殺しは自滅への道であり、「論理実証主義者」は人間については最も実証的でないものとなる。

*1:

プラトンがこの言葉を使う様々な文脈を示したリチャード・マッケオンの非常に重宝な研究「文学批評と古代におけるイミテーションの概念」を参照のこと。その数多くの例を見ると、「かくもばらばらな用例を結びつけるモチーフはなんであろうか」と自問せざるを得なくなる。パジェットの考え方を適用し、哲学者は多くの異なったあらわれを同一の名で名づけることで、<統一的な姿勢>によって複雑な経験を組織化しており、この姿勢は「行為」として、「食物-母親-つかむ」という言語のあり方が選択され、模倣され、振り付けされることで完成するのだと言うべきだろう。彼は、ベンジャミン・ポール・ブラッド(こうした問題に鋭い感受性を示した個性的な作家)が詩人の本質的な言葉として「記憶」を選んだときにしたことを音の響きからしたのである。