ケネス・バーク『歴史への姿勢』 53

... 効率性 Efficiency

 

 正確な比率を危険にさらす。ある新しい朝食を発明するとき、身体の全体的なバランスにとって必要なある要素を取り去ることで、効率的に我々を喜ばすこともできよう。また、別の誰かが失われた要素を取り戻すべきであることを発見する栄養学を効率的に用いるに違いない。生物学的、歴史的な必然性から生じるものは、すべて効率的なものである。自由を過度に強調し、戦略的に義務の要素を無視する自由主義の支持者は、教会の考え方よりも効率的である(教会は権利と義務は同じ硬貨の表裏だという事実を強調したときに真実に近づいていた)。他方、経済的状況そのものが過度の強調をもたらすのに効率的であった(ある階級は強烈な堕落、争論、欲求不満といった副産物とともに宗教的な枠組みよって与えられた機会を捉えて力を得た)。それゆえ、効率性をもった状況の過度の強調は、自由主義者の側からの対抗的な過度の強調を必要とする。人間はすべてのことを一度に言うことはできない。かくして、その発言は必然的にある意味において「効率的」である。それはなにかに強い光を当てるが、その過程において他のものを影に置くのである。我々はこの誤った効率性を「斟酌」という対抗する効率性によって正そうとしている。

 

 暗黒時代のグロテスクな隠者は「効率性」の典型だった。宗教の「本質」は禁欲だと決定することによって、禁欲主義の<理論的解釈>に厳密に見合った生活法を形づくった。かくして、彼らはそうした理論的根拠がない場合よりもより「効率的に」禁欲的であることができたのである。「純粋な美」という理論は、十九世紀の美学的運動に同じような「効率的な」探求をもたらした。芸術とは、様々な密度と散らばりはあるが、「美」の要素をもつものだとされた。為すべきなのは、「美」を絞りだし、この要素だけで作品を仕上げることにあったのは明らかである。それゆえ、「純粋な形式」--「抽象における」美が探求された。

 

 「宗教」や「美」を「実際的で不純なもの」の働きよりもむしろ、純粋な孤立のうちにとらえようとする試みは、笑い猫が笑いだけを残して消えるという『不思議の国のアリス』に創意のある形であらわされている。それは「純粋な」笑いであり、最も「効率的な」笑いを可能にするものである。ある性質を孤立化し、それを全体とすることだけが為すべきことである。猫のない笑いだけを手に入れること。或いは猫から始めるなら、猫を笑わせ、猫だけ取り去ってしまうこと--もし実験を正確に行なえば、混じりけのない笑い、笑いの<笑い性>、「効率性」、抽象的な本質だけを手にすることになる。

 

 ゾンバルトは金銭の発達が人間の目的を合理化することにおいて「効率性」を証明する過程を示した。戦争はそうした「効率性」のもう一つの極端な例である。戦争では、国家の全生命は戦争に勝利するという目的のために組織化される。あらゆる問題はこの検証法に従って単純化される。以前には自由な発言の価値が<論じられていた>というのか。戦争の有効性はそんな問題を解決する--ウッドロウ・ウィルソンのような典型的なリベラルも「良心的兵役拒否者」の投獄に同意した。戦争の効率性は論争の効率性、法律家の権限のうちにもある。論争家や諷刺家は単純な価値基準で、ある要素を強調し、他を無視する。結果として、我々が彼の戯画の背後にある<関心のありか>を見て取り、どう斟酌するかを知っている限りにおいて、彼の戦略は世界の理解に役立つ。作品そのものにあらわれた比率をそのまま受け取るのではなく、計画された不調和であることを見込んでおくのである。

 

 ニュースが吟遊詩人たちによって、非常に「非効率的に」伝えらえた時期があり、その内容は非常に細かな規則によって決まっていた(例えば、<歌う>ことのできるものだけを<述べる>)。この想像するしかない状況はいまでは驚くほどの効率性で官僚化されている--そして、その副産物として、目的と手順の完全に新しい評価基準が生じた。それらは「規範」となり、我が「吟遊詩人」たちは「見出しをどうするか」で記事をつくり、文学はジャーナリズムと個人事業の枝分かれしたものとなった。ジャーナリズムそのものは無計画な哲学の一種であり、文学製品を最大限の速度でかき集める組織的な方法に発達した。低俗な新聞の歪曲は見て取れるが、<あらゆる>ジャーナリズムにおいて、効率化が取られ、歪曲が方法化されているので、手探りで当たらねばならないような場合もある。

 

 株式取引所の喩えを借りると、「有効性」は社会的問題に「売り買い」の商人として臨む者には素晴らしいものである。「長期にわたる投資」に関心をもつ者にはそれほど価値はない。別の言い方をすると、より繊細にすべての要素を維持していく「共生」よりは、ある要素を強調することで「生態学的な均衡」を壊してしまうのである。

 

 たとえ話で締めくくろう。

 

 テーブルの上には様々なものがのっている。幾人もの芸術家が異なった角度から、異なった光等々のもとで絵を描くところを想像しよう。ある芸術家がテーブルの上に<ノミ>を発見した。彼が主題を「根本的に変える」ことも考えられる。<新たな>発見物、ノミを強調して書くこともできる。他の芸術家たちが注意を集中しているような対象は曖昧にしたままで、彼は驚かせるべく小さなノミだけを描きだす。彼はこの場面の「新たな対象」を告げることとなろう。

 

 安定した状態で、充分長く生きたら、彼はノミについての興奮を失ってしまうかもしれない。自分の偏りを正し、テーブルの上の他の対象に正当な関心を向けようとするかもしれない。ノミを発見する以前に描いていた状態近くまでやがて戻るかもしれない。

 

 しかし、別の要因が介入してくる。例えば、市場の要因である。ノミを捉える彼の絵は市場価値を持つかもしれない。彼の発見は、交通信号のような点滅で注意を引くために、より売れるものとなるかもしれない(点滅する光は、つきっぱなしのものより広告や批評で気づかれやすい)。この「実績」のもと、彼は自分の発見を「官僚化」する。彼は自分の方法を<必要な変更を加えて>、「科学的な効率」のもと他の問題にも適用する。恐らく、ノミなどまったく居ないところにもノミを描き加えることとなろう(「見出しのことを考える」のが官僚化されると、小説家は一般的な腐敗を最大限の「効率」でもって描きだすことが可能になる。健全な人間関係を見ても、それを「超越して」腐敗を見て取ることができるようになる)。※

 

 

*1

 

 

 この場合、全く「中身が空っぽ」なわけではない。彼が最初にノミを描くよう駆り立てたものは持ち越されているかもしれない。かつてノミに酷い目にあって、それを忘れられないのかもしれない。或いは、謙虚なやつで、ノミと自分とを「同一視」しているのかもしれない(そして、「敷衍」によって、ノミの原理を他の低次の生にまで拡張しているのかもしれない)。

 

 だが、そこで芸術のノミ学派ができあがったとしよう。それは、こうした個人的関わりがないところで始まる。すべての問題に<外側から>取り組む。<衝動>を抜きにして、<手法>だけを取上げる。この段階で、「想像的なもの」は完全に「官僚化」される。この種の「効率化」はなぜジョーンズがいつも友人をジョーンズ主義に反対するといって責めるのか理由を説明する。

*1:

良質の新聞でさえも、全世界的な通信網を使い、個別の問題を伝えることで、ポオの物語を「官僚化」する以上のことをしているのかどうか不思議に思われることがある。

 とりわけ目立つのが恐怖の要素で、競争者と対抗して記事を「売ろう」とする者はなんとか記事をより不幸なものに仕立て上げようとするのである。かつて、ドラッグについての本のゴーストライターをしたことがあった--雇い主がすぐ教えてくれたのは、ドラッグを規制する提案に「最適」なのは、ドラッグによって破壊された世界を描くことだということである。あらゆる場所にドラッグの脅威を見いだすこと--そして、立法化が「緊急に必要」だとすること。こうしたことによって「ポオの物語の美学」がニュースを支配することになり、<あらゆる>ジャーナリズムを赤新聞にする傾向となる。

 このことに加えて、ニュースの断片的な性格がある。すべてが異なったところに分類されねばならない。各々の記事が一つの単純なテーマをもち、世界中のあらゆるものを独立したものとして扱わなければならない。友人に一言で言えるような料金に何かを見つけだすこと。抜け目なく記事にまで拡大すること。こうして、理想的なリポーターができあがり、その生涯には立派な木が多く切り倒されることで、ゆっくりと端的な言葉で言えることを素早く何百もの言葉で並べ立てる方法を学ぶのである。