ケネス・バーク『歴史への姿勢』 54

... 本質 Essence

 

 行為は共同的なものか競争的なものかである。「本質」としてどちらかが選択される。例えば、婉曲な言い方をする者は、その行為は「神の栄光のために」なされたと言うかもしれない。暴露家は(ニーチェ流の考え方)本質として戦闘的要素を選択することもできる。ベンサム流の考え方では、行為は「甘い汁を吸うために」、自分の利害、自分の権力の増大のためになされるというかもしれない。動機づけの本質を「喜劇的」な枠組みで見る者は、どの考え方も取らず、行為を道徳的なものとみなし、行為者は道徳的な取り柄をなんとかうまく「利用する」のだと考える。これは不当な持ち上げでもなければ、シニカルな幻滅をあらわにしたものでもない。物事を抜け目なく「判断しよう」とするものだが、言葉に含まれる意味が論理的に実行されたとしても、共同作業を不可能にしないような言葉づかいである。どんな地位にいる人間でも、搾取しようとするのは当然のこととしている。

 

 「本質」は「効率性」の一面である。例えば、「プロレタリアート」の虚構を「プロパガンダ」する作家は、「階級闘争」が現代の状況の「本質」だと信じている。従って、「階級闘争」で大きな「効率」をあげるストや工場閉鎖についての物語を書く。そうした経験が二次的なものだとする批評家は、憤ってこうした本質を「図式化」、「過度な単純化」、「感傷」だとする。彼の立場は、この特殊な効率性についてオリンピックに臨むような態度を可能にする。

 

 しかし、そうした批評家の芸術についての議論はしばしば「完璧な世界」という判断体系に基づいているように思える。完璧な世界では、芸術は「効率性」を欠いているだろう。作家は、完璧な均衡を保った超全体のなかで、完璧な均衡を保つ下位全体となるであろう。大宇宙にみあった小宇宙となろう。単一の包括的な共同作業を取る成員のなかでアイデンティティを定めることになろう。

 

 <あからさまに>「理想的な」規範として提示されるのであれば、この判断基準について争いは起こりえない。批評は、ゲームのルールとして、明示的であることが期待される。そして、「完璧な世界」という価値基準の明示的な採用は、規則として残ることになろう。完璧な世界という理想に照らして、と述べることなく、「不完全な世界」のあらわれを論じるときに困難が生じる。

 

 明示的な価値基準であれば、効率性を「責める」こともなかろう。むしろ、アクイナスのように、「本質」と「存在」との区別をすることで、絶対的で包括的な本質を和らげるだろう。アクイナスは現実主義者である。本質という完璧な世界の価値基準を採用するとしても、「存在」という不完全な世界を考えるためにはそれを修正しなければならないことを知っていた。例えば、全体性を芸術の「本質」ととることもできる。しかし、いかなる人間であってもその個別の<存在>は必然的にある要素の強調とある要素の軽視を含むので、いまこの世界で営まれる社会には常に「効率性」(完璧な「生態学的均衡」を破壊するものである)という尺度が入るものであることをつけ加えるべきである。

 

 この立場を正当化するためには、すべての人間がそのメンバーである超共同体とはなんであるかを正確に述べるべきである。忠誠を正当に競うような他の共同体が存在しないことを示すべきであろう。人間とは一つの存在でありながら、同時に「そのアイデンティティが互いに一致しない幾つかの共同体のメンバー」であることから帰結する「多元論」をはっきりと論じ、論駁しなければならない。