ケネス・バーク『歴史への姿勢』 55

... 法廷弁論 Forensic

 

 物品は広場で、市場で供給される。物品についての法律、議会の進行、交通法規、科学的な因果関係は複雑で洗練される交易(物質的および精神的な種類の)に従って発展する。原始的な社会では、法廷的なものは最小限であるか、完全に欠けている。その基礎は、長老会議にあり、そこでは、部族の行為、姿勢、政策が言葉にあらわされ合理化されるように発展した。それが成長するに従い、党派的な強調を加えることが可能になった(ある要素を強調し、それを論理的に敷衍する「専門家」によって)。

 

 子供は必然的にこうした法廷的なものに気づくことなく成長する。彼の関心は直接の親族や遊び仲間、玩具や動物、食物、椅子、テーブル、木、地下室、屋根裏のような物質的対象である。たとえ、広範囲にわたる社会的関係に含まれる複雑な状況を言って聞かせたとしても、その関連性を把握することはないだろう。確かに、それに関する言葉を教えることはできる。しかし、自らの経験によって<得た>ものではないので、本質的に<異質>なものに止まる。

 

 その真の意味を理解するほど成熟したときに圧倒されてしまうこともしばしばである。法廷的な洗練をよしとしない生半可な宗教によって教育された場合は特にそうである。人々が道徳的な資産を利用してもうけ、同じような行動は自分にもあることを判断できるまでに成長するに従い、いかに純粋に世俗的なものではあっても、素朴なヒロイズムは同じような幻滅をもたらす。

 

 それゆえ、法的的なものの猛襲は常に何かしらの衝撃を生みだすに違いない。我々の場合、衝撃は物理的な現象を伴う。あなたの相手は近眼であった。その結果、世界は柔らかくにじんだ線でできている。世慣れた人の教えを最初は「シニカルな眼で」(資本主義の勃興以来発達してきた莫大な喜劇的文学に具体化されているように)見ていた彼は眼科医に送られた。眼鏡をかけた彼は突然過酷な輪郭の世界に投げ込まれる。僅かな同質療法ではそこに見えるものから免れることはできない。それは彼を「打つ」。彼は人々の顔に皺やしみを認め、当惑は<疎外>をもたらす。同じような過程は、人が法廷的なものを始めて真に理解し始めるとき、より精妙な形で起こると我々は主張する。

 

 ごく自然な拒否の傾向がある(幼年期にあった「命題」の「否定」)。いかに表面上は成熟していても、「暴露家」はこの段階にいる。「超越」は、「否定を否定する」までは起こらない。この過程で彼は前法廷的なものと法廷的なものとを一緒にするのであり、その状態は「善悪の彼岸」とも「諸対立の彼岸」とも言われる。