断片蒐集 50 青木正児/樽から樽へ帰るひもがな

 

私はもう酒をのまなくなって10年くらい経つ。惜しむらくはこんな馬鹿馬鹿しい辞世の歌を残せなくなったこと。 

大酒の会

 

江戸初期慶安の頃江戸に大酒戦が行はれた。一方の大将は地黄坊樽次とて大塚(後の鶏声が窪であると云ふ)に住み、一方の大将は大蛇丸底深とて川崎の大師河原に住んでゐた。慶安元年秋の頃樽次は門下の酒徒を引連れて大師河原に乗込み、底深の一門と飲競べして底深を屈服せしめた。此の顛末を戦記物語風に戯作したのが「水鳥記」(三水に酉の意)三巻で、樽次の自作だと云われてゐる。京伝の「近世奇跡考」巻五などによると、樽次は本名を伊原城(一に茨城に作る)春朔とて酒井候に仕へた儒医で、寛文十一年四月七日に卒し、駒込千駄木妙林寺に葬られ、法名を信善院日宗と号した。然るに没後其の門下の酒徒であつた小石川戸崎町祥雲寺の住持が寺内に彼の為に碑を立て、法名を酒徳院酔翁樽枕居士と題して其の辞世二首を刻した。其の一に曰ふ、

   南無三宝あまたの樽を飲みほして、身は空き樽に帰る古里

と。