ケネス・バーク『歴史への姿勢』 56

... 「よき生」 "Good Life"

 

 「人々とうまくやっていく」ことには、必然的に「よき生」という考えが含まれる。それについて簡潔に述べてみよう。

 

 最大限の身体性。身体的経済的設備の必要性を踏みにじる限り、グロテスクな魂だけの存在になる。多くの心理学者は、治療を買うことができると思っている人間に治療を売ることで怪しげな生計を立てているが、これらの人々は適切な身体的表現をとった治療、或いは、治療を必要とするような状態からの免疫性を求めるのである。ボタンを押して済むことが多くなればなるほど(同じことだが、助けを雇うことでもいい)、三文詩人が大量に産出されることになろう(心理学的に雇用されていないという神経症、同じ場所にばかりいる余暇は悪い詩を生む)。テクノロジーの「進歩」が適度に身体的な仕事を奪い、威厳をもった文書管理(機会が働き続けるように書類の整理をする)が割り当てられる限り、不運なことではあるが、半ば退廃的な「スポーツ」に頼らねばならない。市民が搾取的な玩弄物に対する尊敬を失い、喜劇に安住する社会が確立するまで、或いは確立されなければ、よりよき日は訪れないだろう。

 

 「精神的なもの」への過度の強調は、部分的にはスノビズムからくるものであり(精神的な仕事は肉体労働より上に位置づけられる)--プロレタリアートについて屈託なく語る多くのコミュニストが仕事場までさえ歩かず、身体性の言葉による讃仰は座業が生みだした西部開拓期の小説にしかないことはわかっている。「精神的なもの」を高く評価することは、また、「精神」と「身体」という初期の宗教的二元性の世俗的な変種でもある。(身体は「堕落して」おり、精神は「純粋」である--最終的には、堕落した身体も純粋な精神という精神性に達するだろう。現在は、こうした「超越」が、機械によって、この地上で行なわれると望まれているように思われる。)

 

 神経学者が脳の働きを説明する際の喩えが正しいなら、身体を重視するもう一つの根拠がある。二種類の神経繊維があり、一方は外に向かって身体的な行動となり、一方は互いに連絡しあって、内的な連合の働きを発達させるという。この連合を生む繊維は、純粋に心的な活動が身体的行動に取って代わるのに比例して厚みを増していくように思われる。こうした発達の「理想」は明らかにヴァレリー(「テスト氏」の創造者である)の理想と近しいものであり、彼は「完璧な哲学的方法」は目に見られる行為の表現を完全に見当違いなものとするだろうと述べた。こうした方法は連合的な調節だけにより、内的完成のうちに発達するもので、「閉じた円」の対称性をもっている。

 

 マルクス唯物論的な力点が重要なのは、まさしく彼がこの「オナニスティック」な理想の反対を勧めているからである。様々な力は円の<外側から加えられる>--円は外側に向いた<行為を導く>ものとなる。

 

 ギリシャ人は、身体的訓練と心的訓練とを並べ、身体的な矯正の必要についても理解していた。「理想的なギリシャの饗宴」では哲学者とともに運動家も認められた。生物学上では賢明な保守派であったアリストテレスは、反座業的な哲学の学派をつくり、自分の考えを<歩きながら>伝えたのである(逍遥学派)。一般的に困難であるのは、身体的運動家と心的運動家の両方が理想的な哲学の饗宴では代表となるのであるが、どちらも専門家として、二元性の一方を代表してしまうことにある。思想家は「健全な身体には健全な精神が宿る」というような言い方で理想と現実の「たるみをのばす」傾向があるが、そう<発言する>だけで十分だと考えているように思われることがしばしばである。

 

 感情の表現に最大限の機会を与えること。情念に対する不信。情念は「野心的な」ものである。それは資本主義の「創造的精神医学」によって最大限に刺激される。理想的な社会では、野望を<欠いた>者は医者に行く必要はないであろう--野心を<治療してもらう>ために医者に相談するのである。資本主義の逆説においては、過度の野心が規範となっている。野心を欠いた人間は単なる「落ちこぼれ」である。百万ドルを維持するために狂ったように働き続けるためのばかげたすべてを求めるのを止めるやいなや野心を失ったことになるのである。

 

 「精神的なもの」はここで入ってくる。概念的、想像的シンボリズムは感情の戯れにとって必要である。「たるみをのばす」ために必要とされる(避けられない葛藤に橋を架け、適切に扱うに十分な正確さをもって重要な社会経済関係を名づける)。

 

 「超越」によって戦いを共同作業に変える建設。(「戦争の道徳的等価物」である建設、創造、共同作業)。

 

 「誤りの記録」の辛抱強い研究。「文化的破壊」を避けるためには、文明によって蓄積された<文章のすべて>を常にさらしておかねばならない(人々の称讃が責任あるものとしてうまく働かないことがあるという警告となりうるので)。しかしながら、その姿勢が「偏狭」であってはならない。14,18番目の記録の前にはすべての人間が馬鹿だったのだというような自分に都合のいい考えであってはならない。我々の愚かさは常に新たに生まれ出る。最も正確で抜け目がなく総合的な科学であっても、絶対確実ということはあり得ないのである。

 

 とりわけ、批評は、いかなる構造であっても自己破壊的な面(「内的矛盾」)を発達させるものであることを明瞭にしようと努めるべきである。「意図せざる副産物」を見張るべきである--そして、それを指摘しようとすることで窮地に追い込まれないようにするべきである。

 

 知識の限界を常に強調すること。別の言葉で言えば、命題を実行する能力というのは、本質的に<スピノザ的>なものであり、「自由は必然性の知識である」。

 

 <紙の上での>芸術の肥大を不信の眼で見ること。芸術は活気ある社会的関係のうちに表現されるべきである。そうでないと、補償的で、なにかに対する反対として「効率的な」ものとなってしまう。資本主義の基準を完全に受け入れると、あらゆるものを<売るための商品>として考えることになる。それゆえ、我々は「生きるために芸術をしている者」は「才能を浪費している」と感じる。むしろ、社会全体の文脈のなかで彼の「芸術性」を自覚させよう。商品としての「使用価値」がそのことで失われるとしても、より「経済的な」形を取ることにしよう。

 

 確かに、我々はこれですべての問題を明らかにしたとは言えない。移ろいゆくものを永遠のものにしたいという芸術家の欲望もある。プラトンソクラテスの発言を永遠なものにしたように、「良いもの」は永遠に手にはいるようなかたちにしておきたいと思う。プラトンは伝達を目的としてソクラテスの会話を「実演した」。彼は「歴史を越えたネットワークで放送するための」機器であった。移ろいゆくものを永遠なものにしようとする敬虔な態度は尊重しなければならない。ただ、この行為と、生きるための芸術を犠牲にして紙の上での芸術を取る行為との重要な質の違いを認める必要がある。