ケネス・バーク『歴史への姿勢』 58

... 同一性、同一化 Identity,Identification

 

 我々が関わってきたすべての事柄は同一性の問題に行き着く。ブルジョア自然主義の最も素朴なあらわれは、「個人」と「環境」を鈍感に区別し、自動的に、個人の「アイデンティティ」を私的な、彼のみに固有なものとする考えにある。ブルジョア心理学者がこの考えの間違いを発見し始めたときも、アイデンティティの集団的側面というのは、病理学や幻影として考えることができると完全に信じていた。つまり、彼らは正確にも、アイデンティティは個人的なものでは<なく>、人間は自分以外のあらゆるものに「同一化する」ことを発見したのだが、この傾向を「治療」しようとしたのである。

 

 それが「治療」しがたいのは、単純なことで、<正常>だからである。分析による暴露で、悲惨な同一化の事例を挙げて同一化からの離脱を助けることもできる(例えば、ヒトラーに同一化するごく普通のドイツ人の傾向は、ヒトラーが今度は悪意のある経済関係を取ったために、悲惨な意味合いをもった)。しかし、同一化を取り去るだけでは十分ではない。間違った同一化の結果として、戦いに死んだ人間は、なんら同一化する対象のないものよりいい。自分がしていることをどう<考えようと>、精神分析家は<代わりの同一化>を密かに持ち込むことによってのみ患者の間違った同一化を「治療する」のである。(例えば、患者が「精神分析科学の組織」に同一化することもしばしばである)。

 

 ヘレニズムが終わりに近づき、国家の混乱が高まって、誠実な人間には皇帝との同一化が不可能になると(ストア派がそうであったように)、「教育のある」多くの者は、あらゆる同一化を避けようとして弱体化した。共通の同一化を避けようとすることで、自動的に自分を失ってしまった(結果として、無気力、空虚、退屈、疎外が生じた)。キリスト教福音主義は共通のアイデンティティとなる新たな概念を導入することで状況に活動的に対応した。重要な社会的長所があって、それは普及した。同様に、皇帝と教会を含むロシアの崩壊は、共通のアイデンティティへの欲求不満をもたらし、代わりにマルクス主義の「プロレタリアート集団」がもたらされた。

 

 所謂「私」というものは、部分的には争いあう「集合的な我々」の唯一無比の組み合わせである。(ハロルド・ラスキの社会的「多元論」についての論考を参照)。そうした多様な集団的アイデンティティがうまく働くこともある。互いに争い合い、道徳的な混乱をもたらすこともある。

 

 アメリカでは、従事する仕事に同一化することが<自然>である。それは生得権であり、それを否定する限り、虚弱化し、疎外される。会社が「腐敗した支配者」となる限り、唯一の救いは別の集団に自らを<同一化する>ことである。この別の集団を確立しようとする戦いは、「一つの巨大な同盟」のための戦いと呼ばれる。「労働組合主義」、「農民や労働者の」政党などが生まれる。

 

 金融組合への忠誠は、債務が一方的である限り、損なわれる。完全な組合のアイデンティティは双方的でなければならない。親玉は手下の忠節を必要とする--代わりに手下の安全を保証する。様々な保証体制によって、巨大金融組合はこうした双方的な関係を確立しようとしている。それゆえ、労働者を<会社>の代わりに<政府>に同一化させようとする<連邦的>な保証には抵抗する。こうした問題が、政党はできる限り各企業とうまく同盟していきたいにも<関わらず>、「企業」と「政府」のあいだで争いが起こる根拠を示している。企業そのものが互いに争っているために、彼らの忠誠は完全なものではあり得ない(いかにそう願ったとしても)。それゆえ、政党があらゆる点で同一化できるような「単一の企業組合」など存在しないのである。「産業界」が所有者と労働者との双方的な関係を確立するのに必要なことを<望みもせず>、<可能ともしない>ならば、アイデンティティの混乱は続くに違いない。

 

 我々は家族の集団的アイデンティティもここに含めるべきであり、封建制での所有権はそれによって厳密に定められている。『リチャード二世』において、ボリングブロークがヒアフォード家の者として行なった追放の誓いはランカスター家の一人として良心をもって破ることができる。

 

私は追放された、ヒアフォードとして追放された

  だが帰ってきた、ランカスターとして帰ってきた。

 

 

この「祈りに満ちた」仕掛け(異なった「本質」を個人的に手に入れる)によって、彼は王によって個人的にかけられた魔術的な拘束を避けることができた。現代の財政的に共同なアイデンティティによって与えられる便宜に似たところがある(そこで、個人は<再編入>によってそれまでの役割にある限界を「超越する」ことができる)。

 

 「社説にある我々」に「共同的アイデンティティ」が明瞭に見て取れる。編集者はその<制度>内での地位を曖昧に指し示すことで記事を選択し拒み、コメントを書く。(彼はまた、もちろん、そうした地位の特権を「利用する」こともすぐに学び、「編集者たち」の同意が得られなかったと率直に言って記事の掲載を拒むのだが、編集者の多くが彼の代理であることには言及しない。)仕事上の手紙での「我々」もその一種であり、書き手は深く考えることもなく<共同の>役割の上で発言している。

 

 共同的アイデンティティの葛藤を示す最も単純な例は、英雄が「愛と義務とのあいだに引き裂かれる」古い物語のうちに見いだされる。「義務」というのは、より大きな共同的集団(教会、国家、党派)との同一化を手っ取り早く示したものである。「愛」は「最小の共同性」、二人の関係を示している。疎遠(離婚において最大限になる)は、「集団的作業」では<なく>、十九世紀の小説家たちによって称揚された「両性間の戦争」(孤独という「共通の敵」に対抗するために「敵対者」同士が手を結ぶ戦争)である限りにおいて、二人の関係を特徴づける。

 

 要約すると、同一化そのものは異常なことではない。また、「科学的に」排除できるようなものではない。集団的、社会的役割への参加は別の形で得ることはできない。実際、「同一化」というのは、ほとんど<社会性の働き>を示す以外のなにものでもないのである。ある場合には、「<悪しき>同一化」を意味する言葉として使用することもある(支配的な権威のシンボルに同一化するが、その支配的シンボルが今度は明らかに反社会的な動きに同一化するような場合)。

 

 同一化が傲慢を支える巧妙な手段となることもある。それによって、謙虚な人間が最も不埒な「自慢話」に耽ることができる。ある集団に同一化し(教会、ギルド、会社、支部、政党、チーム、大学、都市、国家、等々)、その集団を無闇に褒めそやすことによって自分自身を持ち上げるのである。その集団の「分け前に与っている」のであるから、「相場を操作して」全体としての価値を上げることで、持ち株の価値を高めるのである。その最も単純な例としては、音楽愛好家が騒々しくある作曲家を持ち上げ、作曲家の達成を「身代わりになって分かちもとう」とすることがある。こうした同一化は競争相手との争いに酷使されている店員にも見られるものであり、あるデパートの売り子は、向かいのデパートの商品について軽蔑した態度を取るのである(こうした姿勢は、会社のトップが「外部からの扇動者や組合の組織者の干渉」に対して「会社への忠誠心」を「うまく利用する」ことで取らせるものである)。

 

 「身代わりとなる自慢」の働きは、「叙事詩的英雄主義」や「婉曲的な」動機の語彙に通じている。英雄が伝説によって形づくられ、不適切で釣り合わない細部が切り捨てられ、最も「神的な」性質だけが強調されると、個人による「密かな自慢」(英雄との同一化による)は誇大妄想的になる必要はなくなる。実際、それはむしろ謙虚な方向に向かうだろう。伝説的英雄は、定義上、<超人>だからである。彼は創始者である。後継者が<弱められた形でしかもつ>ことができなかった特徴を持っている。例えば、真に宗教的な人間は「キリストと同じくらい善であろう」という野心はもっていない。キリストの完璧性において彼が分かちもつのは、まさしくそうした野心から自由にしてくれるような要因である。人間の限界内で可能な限りにおいて英雄と近づこうとする。

 

 英雄主義は、「神性の」強調が世俗的なものに移るやいなやその謙虚な性質を失う。世俗的英雄とは、定義上、競うことができ、勝ることさえできる英雄である。それゆえ、英雄主義の理想が世俗化される限りにおいて、喜劇への転換が伴わなければならないと主張するのである。個人的英雄は集団的なものに取って代わられる(この集団に関わり、その伝統を補強する限りにおいて、同じ性質をもつ)。かくして、教会がビザンチンの超然とした姿勢を失うのに応じて、<集団的組織化>にあった<考え方>に強調を置いた「喜劇的」枠組みに向かったのである。「誰でもがそれを読み解釈することができる」よう、聖書の世俗的な言葉への翻訳が最初に提案されたとき、聖職者たちは憤慨した。聖書を解釈する資格のある者などおらず、解釈は集団によって正されねばならないと主張した。さしあたって問題になっていることを見れば、聖職者たちの言っていることは正しい。(もちろん、人々がこの集団的解釈を「奪い取り」、「新たな出発」のための再解釈に用いる場合は除外している。再解釈を支持する者は、楔を打ち込むために必然的に個人的たらざるを得ないので、明らかに疑わしい原理を掲げることで「窮地に追い込まれる」こととなった。)

 

 アイデンティティは、社会構造が「集団的な我々」の葛藤を呼び起こさざるを得ない限りにおいて、「アイデンティティの変化」を含んでいる。こうした必然から、芸術において、様々な再生の儀式化がある。アイデンティティの変化は「隅々を見まわす」一つの方法である。二度目に生まれることは一人の人間でありながら別の人間になることで、連続性と同時に二重性を得ることだからである。そうしたアイデンティティの変化は誰にでも起こる。特に共同性について几帳面に自己形成する人間は、新たな共同性への転換において、いままでのカテゴリーを激しく変える必要があるために鋭くそのことを感じる。※

 

 

*1

 

 

 この共同性の転換から(ある場合は激しく、より微妙な場合もある)、「遠近法」が引きだされる。ある意味で、あらゆる遠近法は「不調和による遠近法」である。というのも、それは「二つの角度から一度に見る」ことによって得られるからである(一眼カメラが平坦なのに対し、立体カメラが二つの異なった焦点をもち、それを合わせることで深みをだすように)。変化は方向の感覚を与える。そこで「予言」が生まれる。トーマス・マンはヨゼフの小説でこの過程を最も「効率的に」象徴化した。

 

段階一:ヨゼフの自己満足的な、夢見がちでふさぎ込んだ様子。

段階二:移行期、穴に投げ込まれる。

段階三:新たな社会的アイデンティティ、「予言する」能力。

 

 こうした予言が集団的な批評によってなされるのでなければ、世俗的英雄をつくりだす危険があることは明らかである。マン自身は、議論の余地をしっかりと守ることによって、個人的に予言者となる誘惑を避けた優れた例である。そして、そのことをしっかりと守り、伝説的なアイデンティティの精妙さを考えることで、完成された「集団的批評」を経た既にある役割との類推によって個人が自分の役割を推し量る可能性を示唆している(伝説の修正過程によって聖書の登場人物が形づくられていくにあたっては、関係のない人物は単に<忘れられる>ことによって排除された。伝説によってできあがった役割は「診断され、創造され、修正された」最終的形である)。

 

 大雑把に言えば、人間は次のような<根拠地>をもとに人間の目的を目指す論理に「同一化する」と言える。つまり、神、自然、共同体(住まい、ギルド、人種等々)、功利性(資本主義、素朴実用主義)、歴史である。<自己>に頼り、ナルシシズムには避けられぬ罰を受けることもある。※

 

 

*2

 

 

 あるいは、次のように問題の領域を分けることもできる。

 

 トーテム的な自己同一化。部族との個人的な関係。小さな原始的共同体で従属が与えられ強いられる魔術的方法。呪術師などによる操作。

 

 カトリック-封建的思考におけるように、「家族的」遠近法がより広い共同性、眼に見えない政治組織によって使われる場合。親密な関係でないものが、親密な関係であるかのように扱われる。聖職者による操作。

 

 議会的。委任された権威への転換。「法廷」的な関係を「家族的」に扱うことの廃棄。しかしながら、通常、多くの親密な関係性はそのまま保持される。政治家による操作。

 

 移行的。主に歴史的目的という考えに基づく(ブルジョア議会的なものは「利益」や「功利性」との連携によって合理化される)。ブルジョアの公的な場における所謂「協力関係」に潜む闘争の明確化に関わる。権威シンボルへの忠誠の姿勢を変えようとするだろう。プロパガンダ(「非公式的な大人向けの教育者」)。

 

 社会体制に潜む経済的不均衡を取り除き、新たな共同的枠組みを確立することで、機会の普遍化を目指す。「立案者たち」による共同作業。理想。喜劇的自己意識。「新カトリック主義」。自由主義の<方法論>によって修正されたイデオロギーの均質化。

 

 ロシアでは、革命の同時性がないことによって、政治<そのもの>とは関係ない様々な問題が持ち上がっている。例えば、ドイツの再軍備化を主張する狂信者はロシアに資本主義の激しい矛盾を課している。というのも、多大な人力と、莫大な資源の浪費が非生産的な仕事、つまり、軍隊の訓練と装備に必要とされるからである。平和の諸基準から判断すると(社会主義経済を判断する適切な検証法)、軍備への莫大な支出は資本主義経済の金利生活者に与えられる「不労所得」とまさしく同じものである。軍隊が戦闘に向けて訓練されねばならず、数百万人がその装備に従事しなければならない限り、建設の事業は抑圧されてしまう。そして、ロシアはヒトラーに蹂躙されるままである以外の選択はないので、軍隊(平和時の生産基準に関する限り金利生活者であり「有閑階級」として<機能する>)をつくり続けざるを得ない。

 

 このことには「精神的な」対応物が欠けているわけではない。「世俗的英雄」という婉曲語法は軍事行動の(そして、軍事行動の準備の)統合的側面である。軍隊がかくも必要とされる所では、とりわけ<威厳のある>ものでなければならない。代理人である「立案者」(喜劇的な共同性に従事する)の代わりに、権威の容器である魔術師的-英雄的存在(喜劇的状況より「優れる」)を得る。

 

 もう一つの矛盾が生じる。平和をつくりだすために充分合理的な線に沿って共同事業に従事していた者たちは、戦争に向かう集団に同一化しなければならない。こうしたパラドックスは真の社会主義的発達の論理を避けがたく歪めてしまうに違いない。我々が尋ねるべきは、こうした歪みをほくそ笑んで見ている者たちが、諸問題が別の手段で取り扱えるようになるまで待っていられるかどうかである。一億六千万の人間からなる事態を調整する方法は、一組の私的な個人を調整する方法ほど融通のきくものではない。一組の個人に切りつめた場合でさえ、手に負えない問題が考えられるのである。

*1:

妻と自分を「ミイラ」、「社会的生活における死人」と表現した男の手紙を見たことがある。子供のなかったこの「共同単位」に新たに子供が生まれ、それに応じて両親にもアイデンティティの再確立の必要が生じた(変化は恐らく男性の方が大きかった、というのも、彼の過去のシンボリズムは「世俗的修道院生活」の強い痕跡を示していたからである)。また、「私の本がまさしくこの秋に、最後のセミコロンで書き終わり--生みだされた」という場合もある。その仕事は数年にわたって取り組んでいたものであり、その完成は彼にとっては大きなアイデンティティの再確立を必要とさせるものだった。「ほとんどなにもせず、誰とも会わず、読書も少なく、ほとんど考えもしなかった」としても不思議ではない。

 また、『ニューヨーク・タイムズ』の1936年12月29日号にはハーバードのH・S・レオナードとH・N・グッドマンが進める新たな「個人計算法」のニュースがのっている。

 「この新たな定式の実際的な適用は現在のところまだ特に価値のあるものではないが、更なる適用が可能だと哲学者は言っている。ハーバートの彼らによって考案された新たな記号と等式を用いることで、論理学者は、幾人かの個人からなる虚構の「全体」をつくりだすことで個人や対象間の関係を記述することができる、と彼らは説明する。

 ジョン、ジェイムズ、アーサーが同じ下宿の仲間だとしよう、と彼らは言う。ジョンとジェイムズ、ジョンとアーサーの関係を数学的に記述する代わりに、レオナードおよびグッドマン博士の方法は、哲学者や数学者に、アーサーとジェイムズを単一の単位と考えることでジョンとアーサーとジェイムズの関係をあらわすことを可能にする。

 数学的に、ある男性の生涯における二人の女性を、あるいは女性の生涯における二人の男性をひとまとめの単位とすることで、新たな哲学的概念が生まれ、『永遠の三角形』を表現することが可能になる、とレオナード博士はつけ加えた。」

 この論理学者たちは、彼らの用語法で、我々が考えているのと同じアイデンティティパラドックスを考えているのではなかろうか。

*2:

自己との同一化と呼ばれるものは、しばしば単にアイデンティティの曖昧さを示している。アイデンティティの曖昧さは、しばしば旅によって象徴化される(実際の移動の場合もあるし、旅行書をあさる場合もある)。我々が言っているのは、いつも移動し、異国で生活するような旅行者のことである。原始的な部族のなかで観察者として生活する人類学者は、通常、彼らとの関係において非常にはっきりとしたアイデンティティをもっている。「学術的集団の一員」として、彼は見物人の役割を保っており、彼が研究している人々がしばしば彼の権威に頼ることで、次第に彼の科学と彼らの生活習慣とが統合されていくことになる(この過程は尊敬と共感があるほど容易になる)。

 近しい知りあいを紹介するときに名前を失念した覚えのある者は、こうした突然の物忘れはアイデンティティについての鋭敏な感受性を示していると自ら慰めることができよう。紹介する瞬間、紹介される者との関係を変え、(状況に合わせて)彼らを見知らぬ者としてみてしまったのである。名前はアイデンティティと密接に関係しているので、紹介する個人について個人的態度を変えることで、名前を掴み損ねてしまったというわけである。