ケネス・バーク『歴史への姿勢』 59
... 形象 Imagery
キャロライン・スパージョンの『シェイクスピアの形象』を読む喜びについては既に述べた。確かに、詩にまつわる問題について我々の尊敬するM・D・ザベル氏はこの本について意見の保留を表明している。彼は形象の分析が幾分ぞんざいだとしている。この評価についてはより寛容な姿勢を主張したい所で、形象の分析が科学的な正確さに達することが可能かどうか疑わしいからである。微細で鋭い区別よりも一般的な方向性を定める助けとなるものである。
以前、スパージョン氏がこうした刺激的結論を出すに至った企図について我々は考えた。意気消沈のうちに我々が行き当たったのは、詩人の作品の用語索引ができあがっている場合には、言葉の使用法のあらゆる場合の共通する性質を探りだすことで、詩人の形象の付帯的意味が描きだせると言うことだった。(『反対陳述』Hermes Edition159ページ)しかしながら、我々のもくろみの内実はと言えば貧困だった。既につくられた用語索引を使って既に為された調査を利用することを提案するだけだった。スパージョン氏は新たに最初から始め、すべての劇についてイメージごとに分類していった。彼女が非常に適切に言っているように、その言葉づかいにおいて作家は「正体を現わす」からである。※
自分の提案に従って他から十分な搾取ができたとしても、我々にはスパージョン氏の達した驚くべき結果に行き着くことはできなかっただろう。彼女の方法によって、シェイクスピアが鍵、あるいは軸となるメタファーを使って劇をつくりあげ、それを劇中で様々な変奏(音楽における「同一テーマにおける変奏」のように)で繰り返していることが統計的に明らかにされた。例えば、『ロメオとジュリエット』は光のイメージで、『ハムレット』は潰瘍あるいは腫瘍、『リア王』は身体的拷問、『アテネのタイモン』は犬、等々である。『アンソニーとクレオパトラ』で荘厳さをだしている世界のイメージが、ローマ帝国主義の<地球>像に体現されている様を見ることもできる。また、彼女はシェイクスピアの日常的な形象と、ある種神々しく、書物臭のあるマーロウの形象とを対比することができた。
シェイクスピアがこうした選択について部分的にでさえ意識的であり得たのかどうかは疑問がある。『コリオレーナス』のプロットはノースによるプルタルコスの翻訳から取られた――どちらの場合も力点は<身体>に関するアナロジーに向けられている。しかしながら、これは政治劇であり、どんな思想家といえども、「政治体制」を論じるときには、こうしたアナロジーに頼ることはごく自然である。それゆえ、シェイクスピアによる主導的イメージの選択が意図的な場合があった(「方法論」によって明確化される「方法」)という可能性を押しつけることはしない。
恐らく、「使うのに便利」なこともあって、我々はスパージョン氏の著作に熱狂しすぎたのかもしれない。それを読めば、あらゆる論点において示唆される可能性を感じないではおれない。新たな研究の世界を繰り広げている。例えば、彼女は、シェイクスピアが戦争や地獄を描くとき、騒音と悪臭の形象に頼っていることに着目する。そこで、騒々しい悪臭に満ちた街に戻るたびに、「さて、これはどっちだ、戦争か地獄か」と自問することになるのである。
また別の点で、彼女は静けさの形象に着目している。シェイクスピアは常に安息所という観念をもっていたという事実を彼女の研究は明らかにした。静けさは彼の心では平和と調和に結びついていた。このことを読んだとき、さほど重要ではないので題名を忘れてしまったかつて読んだポオの短編を突然に思い起こした。単純な二元論的形に組み立てられていた。物語の前半は孤独で無名の人物を描く(十九世紀に盛んに描かれた漠然とした「詩的旅行者」である)。彼は騒乱に満ちた風景を通り過ぎる。激しい風が吹きつけ、木はたわみ揺れている。数ページにわたって混乱に満ちた運動の主題が様々に繰り返される。身元の明らかでない登場人物はもどかしがる。この混乱が止むように叫んで命令する。すると突然、命令が従われる。完全な静けさが行きわたる。それからしばらく完全な静寂のテーマが変奏される。最終的に、詩人は恐怖のうちに逃げだす。
シェイクスピアの形象とポオの形象との間には極めて重大な相違があると思われた。ポオは安息所をもっていない。動きも静止もどちらも不気味な意味合いをもっている。それゆえ、彼は酩酊と衰弱とを繰り返した。酩酊においては、彼は自分の血のうなりを耳の奥に聞いた。静けさというのが彼には考えられないものであったので、恐らくそれを求めたのである。静けさというのは<不動>である――不幸が常に彼を動き続けるよう強いていたため、シェイクスピアが波乱のときにさえ、いまここでの経験の背後で守っていた安息所はポウには死によって得ることを望むしかないものだった。
我々にとって刺激的だったスパージョン氏のもう一つの指摘は、『シンベリン』が田舎の生活と、「売り買い、価値と交換、支払い、負債、勘定、労賃のテーマ」という二種類の形象を軸に構成されているというものである。そして、晩年における他の二つの偉大なロマンス『テンペスト』と『冬物語』を論じる所では、『テンペスト』が音の形象によって組み立てられており、「衝突しあう不協和音から始まり、澄み切った調和で終わる」ことに注目している。『冬物語』がより不明瞭なことは彼女も認める――しかし、ここでの形象がより微妙で、より「観念的」ではあるが、波の感覚、相互作用する自然法則によって組織化されていることを示す十分な根拠を提示している。彼女はこう書いている。
「とりわけ、この中心的な想像的観念が完璧にかつ繊細にあらわれるのは、ペルディータの美しさと野性的で自然な優美さへの賛美によって感情の高まったフロリゼルが彼女の若々しい身体の動きを波の運動のように秩序づけられリズムのある詩として捉え、永久に彼女をこの大きな運動の一部に止め置こうとして、忘我のうちにこう叫ぶときである。
あなたが踊るとき、私が望むのは
あなたが海の波であること
それより他のなにものでもない。」
スパージョン氏がこの三つの劇について提示した可能性については、欄外の注釈をつけるくらいのことしかできないだろう。そのために、シェイクスピアの時代に働いていた歴史的過程の示す曲線と彼の書いたものが示す「曲線」とを関係づけることができよう。
シェイクスピアの初期の劇は、その共同性においてもっぱら封建的だった。『ロミオとジュリエット』の争いの封建的な性質は明らかに見て取れる。封建主義は家族のメタファーによって捉えられ、この劇は家族間の争いを含んでいる。初期の劇にある優美さと洗練の理想は完全に<宮廷の>基準と結びついている。リリーにある誇飾体、シドニーの田園詩にある高慢な振る舞いは、道徳的倫理的価値としてカスティリオーネの『宮廷人の書』にイデオロギーの形で構成されている。
次第に、新たな共同性の流入が感じられるようになってくる。マクベスのグロテスクな犯罪にあらわれる。フォルスタッフのグロテスクな相貌という形を取る。その発端は、「個人的な事業」の犠牲となって死んだメルカシオに見られるだろう。
悲劇の時期は、それぞれに、危機を示している。新たな基準に対するシェイクスピアの感受性は想像力の根にまで達し始めた。深遠なる詩人として、彼は変化を深く感じ取ったのである。そこにはリアの(王としての封建的財産を失う)、オセローの(宮廷恋愛の「資格」が失われる)の混乱がある。※そして、『ハムレット』では相関するすべての問題があまりにも激しくなっているので、職人としてのシェイクスピアはほとんど覆い隠れんばかりになっている。劇は告白的な、エッセイに近いものとなる。劇の一部としての台詞ではなく、<一個人としての>シェイクスピアが語らねばならないことを語っている。
劇作家は道徳的な<確実性>を扱う。もし観客がある基準をもっているなら、劇作家はそうした基準を<演じる>登場人物によってそれを挑発し、刺激し、共感と反感とを操る。しかし、『ハムレット』は<不確実性>のなかにあり、シェイクスピアは本質的なアイデンティティ、劇作家としてのアイデンティティを失う危険にさらされている。新たな基準の勃興をあらわにすることは、職人として書く「権利」を奪い去られる恐れがある。彼の疑いは「心理学的失業状態」の可能性にまで達する――<そのあらゆる能力がところを得ていた>人間にとって、共有、正当化、訴えかけ、「世俗的祈り」の方法が完全に活かされていた者にとって、この所有権とアイデンティティの喪失への脅威は恐ろしいものだった。
シェイクスピアは危機に出逢い、それを乗り越えた。『あらし』という題名にそのことはよくあらわされており、嵐は劇が始まると同時に終わる。劇は嵐の余波に関するものである。嵐は悲劇の時期にあった。この繊細な喜劇はモーツアルト的な調和があり、その後減退する。この曲線は音の形象によって「衝突しあう不協和音から始まり、澄み切った調和で終わる」によっても象徴化されている。※
この劇にはもう一つの象徴化の可能性が見て取れる。劇の最後で、魔術師プロスペローは無骨なカリバンを解放する。彼は追放されたために自由になる。こうした人物の解放によって、劇作家は自分の蓄えを交易に出しているのだと言える。彼は劇を進めるのにこうした頑迷な人物を必要とする。それゆえ、『ハムレット』の時期に予期されていたのとはまったく異なった意味合いではあるが、職業を捨てる用意をしていたと思われる。<そのときには>心理学的失業に脅かされていた。しかし、<いまは>仕事を完了している。危機を通り抜け、それを乗り越える仕事を成し遂げたのである。
残りの二つのロマンスも同じパターンをしている。『シンベリン』では二つの勝利が象徴化されている。第一に、田舎の形象と新たな通商の形象とを織り合わせることで、彼は自分自身のために封建的世界と商業の世界とを「統合する」。ヘンリー・フォードは「農場でフォードの車を育てる」という計画を発展させることで、農場での子供時代と工場での大人になってからの経験を統合したが、シェイクスピアも自身のやり方で同じことをした。自分の劇に通商の形象を織り込むことによって、新たな共同性を受け入れるために必要な懐の深さを検証したのである。※
『冬物語』はその題名からして沈静の意味合いを証明している。作者の劇的哲学は、あらゆる精神的運動と身体的運動とが精妙に混じり合う幾分汎神論的な「普遍的な波動」において完成する。
読者も気づかれるだろうが、シンボリズムに入り込むことなしに形象を論じ続けることはできない。詩人の形象は象徴の類似性によって、たがいに関連をもって組織化される。我々は考え始めるやいなや、対象のイメージからそのシンボリズムに移るのであり、イメージそのものだけではなく、その諸関係の文脈のなかでの働きを考えることになるのである。そこで、素直に、形象から公然たるシンボリズムの議論に移ることにしよう。
もしある人間が山を登るのに、山登りに関心があるわけではなく、純粋にどこかにたどり着くために、最短の道として登るなら、シンボリズムを探る必要はない。しかし、なぜそこに行きたいのかと論じ始めると、シンボリズムの問題に入り込む。その目的の概念には人間関係の文脈が含まれているからである。彼の目的は「社会的」である。それ自体で独立したなにかではなく、多くの関係の一つの働きである。つまり、象徴的だと言える。結局、ある行為というのは、人間がまさしくそうすることに関心をもってしたことだからである。――その行為は「象徴的」行為である。その人間の「アイデンティティ」に関わりをもつ。
1914年に戦争行為が始まる<前に>、フランス軍隊の計画を記した『プルタルコス歌曲』という本を読んだことがある。その計画は「ユートピア的」で、高度に<象徴的な>ものだった。戦争アカデミーは、ヴァレリーが尊重するソネットの規則と非常によく似たやり方で軍事行動を繰り広げたのである。フランスのアカデミーの天才はその戦争計画にあらわれていた。戦術の全体系は、戦争がテニスやチェスと同じく決まったルールをもったゲームであり、どちらの側もそのルールを守るかのように組み立てられていた。(この仮定はあからさまに表現されてはいない。そう言明されたら、疑義が投げかけられただろう。戦闘が規則によって組織化されていた初期の騎士道からの「獣道」として、暗黙のうちにのこり続けていたのである。)
戦闘行為が始まったとき、フランスの軍事アカデミーは象徴的戦略を実行に移し始めた。ドイツの側面攻撃を準備して一部隊を動かした。自陣への側面攻撃を防ぐために一部隊を後に残した。ドイツも同じようにした。二つの軍隊が北フランスを過ぎ、海に至るまでこの過程は続いた。戦略的な軍事行動によって、フットボールのV字型戦形のようになると、二つの軍事的リボンが「形なく」繰り延べられたようになった。状況の「現実」が新たな必要を生む。戦争計画のユートピア的シンボリズムは、それを官僚化し、「この不完全な世界」の現実の必要に「完璧に」合わせるように命令が下されることによって変更された。封建主義の軍事行動では、二つの戦隊が向かい合い、意図したわけではない「消耗戦」が続くのである(「獣道」のような「目立った場所」を取ったり取られたりが続く)。
この本から我々の目的のために引き出せる教訓は、戦争計画でさえ、それが実際に試される<前には>、象徴的要素を示すということである。
例えば、アメリカの軍隊は、一人一人に車と弾薬とが配給され、それが最小単位となって働くといわれている。もしこの情報が間違っているにしても、それを認める<べきではない>。こうした軍事計画は「象徴的に完璧」に思えるからである。我々の個人主義と工業化と規格化が一つになってこれほど正確に象徴化されている例を他には想像できないであろう。(1955年の付記。日本人の第二次世界大戦における自爆計画との顕著な象徴的差異を見よ。)
実際、この可能性は、新たなロシアの戦略に含まれる象徴的要素について考えさせることになる。敵前戦の<背後に>飛び降りられるようパラシュート部隊が訓練されているという戦略である。実際に検証が為されて、この戦略がいいかどうかはわかることになろう。しかし、実際の困難な状況がその正しさや失敗を証明するにしても、この戦略そのものがマルクス主義哲学の奇妙な戯画を示唆している可能性は残るのである。共産主義者は、もしロシアに対する戦争が起こっても、<敵前戦の背後で戦いを>試みることができるに違いないと信じている。
戦略家たちは、まったく異なった意味合いをもつ戦争計画のなかでこの姿勢を象徴化している。彼らは真にマルクス主義的な意味において、「前線背後での戦い」を例証しているわけではない。それらはマルクス主義の歪曲である。しかし、「国家共産主義の戦争」というパラドックスが、現実の状況にあるもう一つのパラドックスに内在している。つまり、共産主義は、世界で同時に確立することは<できない>という事実である。これは生の「現実」がマルクスの歴史的形態学(必然的に、検証の前に書かれたものである)の「理想的シンボリズム」に導入されるときの手に負えない部分である。
要約すると、戦争計画のような実際的なものでさえ、その象徴的要素を探ることができる(全世界的な物質の官僚化の十分な検証がなされる際には、多大なる変化が必要とされるだろう)。
シンボリズムのもう一つの例。「古参のボルシェヴィキ」の裁判と処刑に続き、新聞がスターリンに関する「ジョーク」をのせ始めたのは印象深かった。スターリンは愉快な男の典型というわけではない――それゆえ、連続性の裂目にあらわになるものがあるという我々の主張に従えば、この「不連続的な」冗談にこそシンボリズムの可能性がある。ロシアで行きわたっている話によれば、スターリン自身は死んでいる。最終的に彼自身が登場し、手真似でこの噂を「肯定した」というのである。ここには彼のいつもの役割にある意味深いものがありはしないだろうか。古くからの仲間が彼に敵対し処刑されたとき、彼の「アイデンティティ」のある部分が実際に死んで<しまった>と言えないだろうか。そして、彼は自身のなかのこの部分的な死を、噂を「おどけて」肯定することによって象徴化したのではないだろうか。
しかしながら、一般的な話としては我々に同意してくれようとする読者でも、我々がこの本のどこにも象徴的要素の完全な図式化を提示していないことには憤慨するかもしれない。我々の基本原理は、あらゆるシンボリズムは儀式的な命名とアイデンティティの変化として扱うことができるという主張にある(人間は確立された共同性の役割に自らを合わせるか、新たな共同性が必然的に強いる役割の変化を受け入れる)。図式化できるとしたら次のようになる。
一般的に、こうした変化の、或は「浄化」の儀式は三種類の形象に集中する。氷による浄化、炎による浄化、腐敗による浄化である。「氷」は去勢と冷感症を強調する傾向にある。(険しい山、冬、北極探検、個人或は世界の寒さによる死。それゆえ、『アンクルトムの小屋』でエリザが子供とともに<氷の上を乗り越える>ことと、オデッツの「贖罪の」劇である『失楽園』で主人公が氷の下に溺れていると訴えることとの相違に注目すべきである。)火による浄化、「火刑法廷」は恐らく「近親相姦の不安」を示唆する。(太陽に迎え入れられ、同時に焼きつくされるある種の神秘家の「太陽による死」の夢のように。太陽はもともとは女性であり、ドイツ語の「Frau Sonne」に残っているように、豊穣の女神であった。火の女性的な性格は、ワーグナーのオペラで、ジークフリートが花嫁を火の輪から助けだすところにもあらわれている。こうした意味合いはアースキン・コールドウェルの物語にも守られており、そこでは火と母と地とが一緒になっている。)腐敗による贖罪は様々な形の芽を出す種に象徴化されており、汚物や腐敗の新たな緑が発するのである。しばしばそれは同性愛の意味合いをもつように思われる(アンドレ・ジイドの小説のように)。また、山と穴という二つの観点の象徴化が認められる(橋、渡ること、旅行、飛ぶことと混じり合うこともある)。山は近親相姦的な要素を含んでいる(母としての山であり、攻撃者に対する象徴的罰である冷淡さを伴っている)。穴もまた同様である(子宮と「下水」の両義性があり、後者もまた「腐敗による浄化」の構成要素となる傾向がある)。
たまたまネーサンとチャールズの両レンズコフ二よる「ミシン技師の幼年期」の一節が書き抜かれたものがここにあるが、それが我々の目的にはほぼ完璧に近い。まずそのすべてを引用し、次にそれぞれの段階を分析しよう。
「私が家に入ったとき、彼女[仲良しの母親]は『こっちに来てストーブのそばで暖まりなさい』と言った。彼女の夫は怒った目つきで私を見やり、賛美歌を歌い続けた――私の父や他の人がするように悲しげにではなく。そして、『我が助けとなりし丘に眼を向けしとき』というところまでくると、同じように眼を上げるのだったが、売り物のウイスキーの樽を見るだけだった。」
「私が家に入ったとき、彼女は『こっちに来てストーブのそばで暖まりなさい』と言った」。これは「私は仲良しの共同体に参加したと思えるほど十分に彼と同一化した。彼の共同体(家)に入ることによってアイデンティティを変えたとき、この共同体の母親シンボルは『私のそばに来て(私を連想させる暖かなストーブ)繁栄を感じなさい』と言った」と等しい。
「彼女の夫は怒った目つきで私を見やり、賛美歌を歌い続けた――私の父や他の人がするように悲しげにではなく」。これは、「この新たなアイデンティティに伴う父親シンボルは母親シンボルのように共有できるものを与えてはくれない。母親シンボルとの関係は象徴的な近親相姦だった。父親シンボルの方は、より<広い>共同体、宗教的共同体との関係によって、<自身の>アイデンティティを主張している。しかし、彼の穏やかな言葉は態度によって裏切られる。彼は共同体の<悪い>成員である。彼は同一化しようとする私の試みを冷ややかに迎えるのである」と等しい。
「『我が助けとなりし丘に眼を向けしとき』というところまでくると、同じように眼を上げるのだったが、売り物のウイスキーの樽を見るだけだった」。これは、「私の新たなアイデンティティの父親シンボルが自分のアイデンティティを主張し、「繁栄をもたらす<我が>母親の神秘を、罪を感じる懇願の眼で見るときに」という語句にくるが、彼は実際には<懇願>ではなく、粗暴で図々しいまなざしを向けるのである。それに不思議はない。彼は彼女を娼婦に仕立てたからである。彼女の腹は樽として戯画化され――売りに出される。まさしくそれは<アルコール>から生じる純粋に物質的な種類のスピリットである。それを売ることで、利益による純粋に<量的な>検証を経ることによって、彼は宗教の金銭による戯画化に達する」と等しい。※
要約すると、証拠となるものを見てみるに、子供は仲良しの「共同体」に同一化する際に、自分のアイデンティティを携えていく意図はなかった。ちなみに、「共同体」の意味には三つの段階が認められる。グレンウェイ・ウェスコットの『眼の林檎』で、主人公が母親に「お前の体は神殿だよ」と教えられるときには<個人主義的な>共同体が象徴化されているように思える。身体から家にまで拡大することで、共同体の親密な意味合いが強調される。カミングスの『巨大な部屋』やジェイムズ・ダーリーが『季節のかけら』で共産主義を家にたとえる場合である。『狭い家』のイーブリン・スコットはもはや家という次元を保持できなくなっているが、それでもそうした共同性によって考えようとしている。さらに、「都市」とのアナロジーによって共同体を考えようとする傾向がある。より近くから観察すると、この都市には、「死者の都市」という響きのあることが明らかになる。ある意味で、より「抽象的な」「都市」という枠組み(共同体に宗教的、或は歴史的広がりを与える)に同一化するためには、自閉的で親密な枠組みをもつ個人が「死」ななければならない限り、こうした要素は避けられないように思われる。
我々はこれを精神分析的な「倒錯」に厳密に当てはめることはしないし、もしそれだけの意味として捉えると我々の目的には不満なものとなるだろう。我々は象徴的行為の存在を、それが権威シンボルと関係する<社会的行動>を生みだす限りにおいて認めようとしている。個人主義的な心理学は常に象徴的行為に誤った力点を置いていると我々は信ずる。個人主義的共同性とは、非社会性のことではなく、治療の基本は社会化である。
例えば、個人的な「死の衝動」と完全に社会化された死の衝動とは非常に大きい質的な相違がある。個人的なものは自殺という表現をとるが、社会的なものの論理的表現としては、生への、有用であることへの、身体的精神的連続性を子孫に残そうとすることへの強い欲望である。個人主義的心理学者も言葉の上では同じことを認めるだろう。しかし、通常、彼らは「社会人」としてではなく、「個人」として救われたいと望む人間に雇われているので、実践においてはそれを否定する方に進むのである。共同性による昇華或は「超越」はある種良性の「幻影」に等しいものとなる――アイデンティティを純粋に個人主義的に定義すると、「共同的アイデンティティ」は、合理性における踏み外し、<自己>欺瞞となってしまうからである。それゆえ、「愚かである」ことを望み、共同的な同一化を無意識のうちに選ぶ「素朴さ」を「羨み」ながらも、自身の「啓蒙」を喜ぶことになるに違いない。
確かに、個人は存在<する>。各人間は唯一無比の経験の組み合わせであり、状況の唯一無比の集まりであり、たがいに支え合い勝つ争い合う「集団的我々」の唯一無比の集合体である。しかし、彼は自分の独自性を無冠の王様のものとして扱う代わりに、自分の唯一無比な組み合わせと社会的パターンとの関係における社会的パターンとの間に象徴的な橋を架けねばならないのである。社会の官僚的な体制を利用することによって、個人の役割を形成し、実行する。そうするためには、純粋でユートピア的な戦争計画が客観的要因の障害に出会ったときいったん死に再生したのと同じように、「死に」、そして「再生」しなければならないのである。心理学者がこうした必然的な修正を<単に>「死の衝動」やサディズムのマゾヒスティックな抑圧と取るなら、彼の洞察は洞察よりは誤解に近いものとなろう。出来事をあまりに限定的な共同性のもとに捉えているからである(火のついた家に飛び込むA氏の姿を見て、その行為をすぐさま「死の衝動」によって説明するのだが、実際にはA氏は自分の生活のために必要なものを持ちだそうとしていただけだという場合のように)。間違った力点の置き方(なにも強調しないよりまだ悪い)は、個人主義的心理学の議論の<あらゆる点において>社会的共同性を織り込むことによってのみ正すことができる。こうした織り込みは単に「個人」と「社会」とを対立させることで成し遂げられるものでは<ない>(十九世紀の「有機体」と「環境」との平板な区別においてのように)。※
個人主義的心理学者は共有にほとんど注意を払わない。臨床的に認められる「原罪」を治療しようとはしない。人は「喪失を社会化」することで「負担を共同の利益」としなければならない(金銭のやりとりにおいて戯画化されるように)。そして、こうした社会化の模倣は信仰告白に限定されるものではなく――実践的な領域において官僚的に完成されねばならないのである。
*1:
※こうした批評の仕方がどのように進めば、詩人、そして哲学者さえもその正当性を感じるようになるだろうか。例えば、ある思想家がある観点を支持し、それを「列聖調査審問」の方法として支持したなら、彼は自分の観点にある「悪魔的」要素をあらわしていると言えないだろうか。あるいは、ある哲学者が、その長い著作を終えるにあたり、自分の考え方を取るものこそ「真の君主」だと興奮気味に語ったとすれば、その動機の「本質」に独裁者の待望が潜んでいることをあらわにしていないだろうか。
将来の作家たちにとって、「メタファーに注意」という標語は、地下鉄の雑踏での「足元に注意」と同じ意味をもつものになりうる。あるいは、別の言葉で言えば、形象を検査することは、問題を探る方法として、生理学で体温や体重、血圧を測るのと最も近いかもしれない。
新たな種類の「矯正的偽善」が生まれる可能性さえあり、ある種の形象が他のものよりより「健康」(あるいは道徳的に優秀)だと決定した作家が、注意深くそうした形象を開拓するよう<自らを導き>、表現の無意識の文法になることもある。(1955年の付記。「新たな事態?ボワローの次の句を見よ。Que votre ame et vos moeurs,peintes dans vos ouvrages,/N'offrent de vous que de nobles images」また、文体を引き締めるために板の上に寝たイエーツを思い起こしてもいい。)
それでどうなるだろうか。こうした選択は「世俗的祈りによる性格設定」に役立つことができるだろうか。「正しい」形象を模倣することが、まっすぐの姿勢と元気な歩みとしっかりした握手が、「呪文」として働き、人間を精力的な人間へと変えるように、詩人をつくりかえるのだろうか。あるいはパスカルが求めたように(そしてある程度は成功したが)聖水を使うことで信仰に到達するのだろうか。
いずれにしろ、東洋の神秘家が静かな息をすることによって静寂の境地に入るように、客観と主観の間には照応があり、適切な客観的姿勢を取ることで、望む主観的状態に<導く>ことができるのは間違いがない。ポオの物語の客観的な恐怖の描写が読者にも恐怖を呼び起こすことができるなら、どうして詩人が形象を<意図的に>特殊化することで、「自身を越える」(あるいは少なくともそう試みる)のが不可能なことがあろう。
また、<定められた>形象が、時代の要請と厳しく争いあう傾向のあることも見て取ることができる(静穏な呼吸法を完全なものにしたというのに、周囲の世界は恐怖と怒りで息切れがしている場合のように)。だが、喜劇役者の無責任な物まねを見る我々の楽しみは、まさしく、彼らが世界の出来事の重みに無遠慮に敵対する祈りを完成<させる>ことにあるのではなかろうか。
勃興する「権力-知識」の哲学に直面したシェイクスピアの恐怖が、祈り(宗教的遺産の世俗化)を脅かされることから来ていることを我々は信じる。言葉は「言葉、言葉、言葉」となる恐れがある。スタイルは「単なるスタイル」になるだろう。彼がかくも完全に発達させてきた資質が疑問に付されることは、彼のアイデンティティが分解させられることだった。ニチャード二世は、ハムレットによって完成された役割の最初の形であると思われる。リチャードにおいて、彼は王の領域に移すことによってスタイルを荘厳化した(祈りによって出来事を押さえつけようとする王の試みは、すべて、すぐさま客観的状況において逆の働きに行き当たる)。リチャードが真の王となるのは王を退こうとするときだけだというのも注目する価値のあることである(到来したブルジョア的な取得の道徳性によって脅かされる教会的な「貧しき者の繁栄」とのシェイクスピアの親和性があらわれている)。
*2:※ウォルター・ヒューストンのオセローの解釈を論じるにあたり、ジョゼフ・ウッド・クラッチが劇の「中心的なモチーフ」として強調した「デズデモナにおいてオセローが『その心を蓄える』という事実」は我々の目的に役に立つ。つまり、彼女は「彼の生における信仰のシンボル」であり、「単なる一女性以上のもの」である。「彼女の喪失」は「彼女を失うということ以外のすべてを失うことである」。そこで、シェイクスピアの寄る辺のなさについての深い知識が、簡潔で深みのある表現「オセローの支配は去った」においてなされるのである。
*3:※歴史はシェイクスピアにとって教訓やプロパガンダの一種である。それらは封建主義から国家主義的思考への転換を操作する。
*4:
※この点について、読者にはこう問う権利があろう。この観察は、著者が、解釈の目的のためとはいえ、最後まで商業主義的な用語を保持していることとどう折り合いをつけるのだろうか。率直に言って、我々はそれをある種「風変わり」な点において好んでいる。それは我々を満たしているが、理論上では低く見積もろうとする傾向のために、「距離の情念」とでも言えるものを帯び始めている。恐らく、変わりゆくギリシャがホメロスの古拙さを好んだように、我々はそれに文体的な「防腐処理」を施そうとしているのだろう。
更に、複雑な産業の上に成り立つことで洗練されていった社会では、必然的に商業的な交換のシンボリズムが持ち越されねばならないことも我々は感じている。ブルジョア思想が「人間喜劇」についての我々の理解を形づくる際にその寄与を捨て去ってしまうのは「文化的破壊行為」と言えるだろう。
*5:
※マルクス主義者とフロイトはとの論争は、しばしば、政治的でもありながら同時に前政治的広がりをもつ親シンボルの両義性から発している。
例えば、ルイ・アラゴンの『バーゼルの鐘』は「二種類の女性誌か存在しない」ことを語っている。第一の、エロティックでふしだらな女性は頽廃した資本主義に結びついている。小説の最後になって、彼はもう一種類の女性、年を取ったクララ・ゼトキンの姿であらわされる「共産主義的母親」とでも言うべきものを見いだす。(始まりと結論の間には移行期があり、そこでは以前にはふしだらであった女性が政治的目的のために禁欲的に生活する。)興味深いのは、批評家や小説家自身によってさえ気づかれていることだが、クララ・ゼトキンが登場した瞬間、小説の連続性が決定的に途切れてしまうことにある。それまでの叙述の形式は放棄され、虚構の<外側の>人格である著者が前に出るのである。我々は次のことをアラゴンがデカダンスの伝統によって取引を学んだ結果によるものだとする。つまり、数百ページにわたって主題を完璧に保つことである。しかし、クララ・ゼトキンに言及するや、彼は自分の方法を捨て去らねばならなかった。新たな「政治的」アイデンティティが前面に出て、古くからの「美的な」アイデンティティに取って代わることになった。娼婦の場所に母親がくる。それに従ってアクセントの場所も変わる。
*6:※個人主義的心理学者が、心理学的出来事を位置づける枠組みとして、<残忍な>共同性を考えたがるというのも見て取ることができる。看守の厳しさは、正反対の観点から、「優しさの抑圧」として論じたとしても充分合理的である。交易の官僚的な必然は最終的には過酷さをつくりあげるものであること、そして、そうした必然性への抵抗もまたそれをより過酷なものとすることに終わることは認められる。しかし、最近の心理学者は、むしろ、厳しさを「規範」とし、優しさや愛情を単に「残忍さの抑圧」と考えている。残忍な番人は親切なものよりも「真実に近く」、親切なものはそのもともとの性格を「抑圧」しねじられることで優しく見えているに過ぎない。もしどちらかを「本質」として選択<しなければならない>としたら、残忍さを抑圧された優しさとするか優しさを抑圧された残忍さと定義するか決めねばならないとしたら、どうしてより縁起の悪い方を選ぶのだろうか。こうした選択において、心理学者は、勃興する残忍性の崇拝(疎外に対する怒りを伴った)に貢献しているように思われる。