情動の両価性ーー幸田文『猿のこしかけ』(昭和32年)
『妲己のお百』は元々は講談の怪談噺で、七代目一龍斎貞山がよく演じていたものらしい。私が聞いたのは立川談志によるもので、川戸貞吉のライナー・ノーツによると、談志も滅多に舞台にのせることはなかったという。妲己のお百は池波正太郎の『鬼平犯科帳』に出てくるような凶悪な強盗団の一味で、ちょうど仕事と仕事の間で金に困っているとき、親切ごかしにある母娘に取り入り、目を患っている母親を療養のためと追いやり、その隙に娘を吉原に叩き売ってしまった。療養から帰ってきた母親にしばらくはあれこれと言い繕っていたが、娘に会わせろとうるさくてしょうがない。面倒だから殺してしまえと、盗賊仲間の秋田小僧の十吉に金を渡して始末を頼む。十吉は娘に会わせるからと母親を引っ張り出す。お百が住んでいるのは深川である。
古江町から水場の橋、霊岸の墓場を右に見て、たか橋から二つ目、おたけ蔵前をマッツグに、大川橋渡らず、右に切れた向島の土手でございます。
そこまでくると漆黒の闇で人っ子一人いない。そこで十吉は母親を惨殺する。この部分を聞いていてなるほどと思ったのは、幸田文の次のような文章があったからである。
私は村生れの村育ちではたちまで村から出ないでゐたのだが、村は小さい工場とそこの職工さん、小商ひのうち、人足さん、さまざまの居職の職人さんたち、そしてさういう人たちに浸蝕されて取残されたやうに散在してゐる農家、ーーといつた編成であつた。(「三人のぢいさん」)
幸田文は幸田露伴の娘であり、露伴は向島に住んでいたから、当然幸田文がここで村といっているのは向島のことなのだが、東京の下町にあまり詳しくない私は、村という言葉に引っ掛かりを感じていたのである。しかし、談志の噺を聞くことでなにか引っ掛かりが取れて、納得してしまった。芸の力というものだろう。
『猿のこしかけ』は、昭和32年に10回にわたって『新潮』に連載されたエッセイだが、特に統一的なテーマがあるわけではなく、幼いときに村にいた三人のぢいさんのことから、三十歳代の半ばすぎ、離婚して再び父親と過ごすようになったとき、父親が死んで四十代半ばから執筆活動を始めた昭和23年からこのエッセイが書かれたあいだに起きたらしい最近のことまで、年月もまちまちである。
女性が溌剌としていて然るべき三十歳代に離婚して実家に戻った時期のことを、幸田文は自分がこれまで生きてきたうちでも「平つたい期間」であり、「平伏してゐたつもり」だったといっているが、それはなにも意気沮喪して縮こまっていることを意味しているわけではなく、平たくなっているからにはもはや身を起こすしかない姿勢で、こんこんと湧き上がる力を溜めているにすぎない。だから、お茶の先生の看板を見たらどこでも入っていって、ただし相手側に迷惑をかけることなく、『南方録』がどう扱われているのか見てきてほしい、という露伴のはなはだ漠然とした要求にもさして拒むわけでもなく、ひょこひょこと出かけていく。しかも、幸田文は『南方録』など読んだことがないし、露伴もまた娘が読んだことがないことくらい察している。要求に応えられるかどうかは状況を感受する身体にかけられている。
父親露伴に対する態度に典型的なように、幸田文はある意味直線的といってもいい、論理的で筋の通った議論をするのだが、それを動機づけもすれば、推進力ともなる情動が常に両価的なので奇妙なドライブがかかることになる。父親が相手なら離婚して戻ってきた引け目と、露伴の学問に対する劣等感が強ければ強いほど負けん気の強さが突き上げるある種わかりやすいものなのだが、例えば、本の題名にとられた「猿のこしかけ」に対する姿勢となると、一筋縄ではいかない。猿のこしかけとは木につくきのこであり、樹木が少なくなった東京では見ることもなくなってしまったが、「消えてしまつても惜しくはない、きたない菌である」と言いながら、子供の頃はよく見かけたもので、「しよぼしよぼ雨の降る日などはことに茶褐色にきたならしく、その上に空想の猿を置いたり鳥をとまらせたりして眺めてゐると、私は飽きなかつた。人形やおはじきとはまつたく別で、猿のこしかけは遠い山の中を感じさせた。」と、きたならしいことが必ずしも否定的な判断に結びつくわけではないことが示される。さらに、最近北海道で久しぶりに猿のこしかけを見た、案内してくれた人によると、あのきのこは材木屋泣かせで、あれがつくと上下五尺はボロボロで使い物にならない、どんないい木でも売りものにならなくなってしまう、ということを聞いて、「そんな悪いやつだつたのかと残念」に思うが、「それだからかへつてをかしくていいとも思ふ。」(あとがきにかへて)としめくくるのである。つまり、幸田文という人においては、情動に引っかかるものであればあるほど、その出来事やものは、それに比例して強い両価性を帯びていく。