ケネス・バーク『歴史への姿勢』 60
... 合法性 Legality
理論的に言えば、我々は習慣から始める。習慣の有効な規範化として法律を得る。法の抽象的な源は言葉のなかに含まれている。抽象は死んだメタファーだからである。死んだメタファーを混ぜ合わせることで抽象の上に抽象を重ねる。思想家は既に確立された用語法とのアナロジーに従って、慎重に新たな抽象を発明することで言語を導きさえする。ここに、「利用する」ことのできる源泉がある。習慣の権威が衰えに脅かされているときに(新たな習慣の侵略によって)、人はそれを利用する。法は「世俗的祈り」の一形式となる。(法は、通常、魔術的承認に近い神学的な法に始まる。しかしながら、ベンサムが明らかにしたように、「宮廷」が「教会」と同じような心理学的承認を与えるとき、裁判官<個人>が彼らだけの<共同的>アイデンティティだけで行為していると感じるようになる。
法律的な決定による祈りの試みは、法律家の誠実さを命じ、法的な勧告によって望まれたものと得られるものとの「たるみを取る」よう奨励する者のように、職業と所有権との区別(「階級闘争」)によって特に活気づけられる。それゆえ、原理と現実との裂け目に橋を架ける法的虚構や司法による「解釈」が導入されることによって、決疑論的拡張への誘因が見られる。(法律制定による「世俗的祈り」の諸形式は、共有する本質の官僚化を背景にしている限り、充分<現実的>である。)
法律に固有なものとして、自然主義がある(自然現象とのアナロジーが適用される「因果的」関係によって法廷に関わる知識が蓄積されていく)。そして、法がより高度に官僚化され、より「効率的」となり、特殊な利害を保護するために決疑論的に使用されるようになると、魔術的な承認の領域から出て、交通法規の領域に入ることになる(効率的な後ろ盾となるのは、権力や罰金による脅威しかない)。
法は、各集団がある側面を強調し、他の側面を無視することができるような複雑で、官僚化された思考体系を与えるので(修道院制度とのアナロジーを利用するか、新たな正当性を形成するに十分な強さを得るまで異端として無法の立場に止まるかとなる)、異端、セクト、分派にもまたそれによって独自の文化を得ることになる。
合法性は、いかなる形においても、「生態学的均衡」とは異なる合理的孤立による「効率性」をつくりだす。かくして、我々の拡張した言葉の使い方によれば、ファラオがエジプトの生産性とその果実の間違った配分の仕方のたるみをとり、ピラミッド建設という「精神的投資」に過剰な労働力をつぎ込んだのは「合法性」に関わる問題である(ロックフェラーがラジオ・シティの建設によってたるみをのばしたのと同じように)。しかしながら、ピラミッドは、ある不動産での企画が他の不動産所有者を危険にさらすようには、(他のピラミッドにおける)同様の投資を危険にさらしはしなかった。
ファラオの精神的投資(それは、<すべての>民衆が王を不死化する儀式を「支柱にして」共同性を確立したという意味において「集団的」なものだった)の「信仰の妨げ」となったのは別のことだったろう。ピラミッドに関わる非生産的な労働に、経済的に言って十人のうち<三人>を割くことができるとしても、ファラオは合法的に十人のうち<五人>をこの仕事に要求できたのである。(割合は適当なものにしている。)二人に誤って割り当てられたことからくる必然的な生産性の喪失は、全体としての民衆の生活基準を下げることで分配されねばならなかった(「社会化」)。「合法性」の要素は、今日では、生産力と販売力との割合にあらわれており、セールスマンの「精神性」はピラミッドにおいてそうであるように、生産体制からは精神性を取り除いている。テクノロジーの合法性が、効率的に生産性を増大することで、たるみを伸ばすのに役立っているのである。