ケネス・バーク『歴史への姿勢』 61

... 語義学的な Lexicological

 

 ライップニッツは、哲学は現実には、定義の連続であると示唆した。法廷での慣習が思想家たちを刺激して、その大系を「議論」としてあらわさせるようにした。実際のところは、それは単に<相互に関係する用語の集合>である。本当の仕事は、そうした相互関係を明らかにして論じ、それを出来事の解釈に適用して関連性を検証することにある。こうした試みを観察する読者は、それが現実にうまく適用されているか自分自身で判断する。作者は、他人の記録(似たような働きをもつ用語によって組織化されている記録)を読むことによって主観性を避けようと努める。「転用可能性」を検証しようとする(他人の用語が自分の定式化のなかでも働くことができるかどうかはかる)。そして、自分の用語が出会う抵抗や受容を指針として、更なる共同性を得るのである。

 

 作家は法律家の摘要のような形で、用語を「搾取する」こともできる。弁護士がある「事件」を弁護するように、ある「原因」を支持するかもしれない。しかし、彼が「用語の定義」<そのもの>に関わっている限り、こうした手順は否定される(論理的説得力、つまり「強制されるもの」について「論争」するとして)。彼の主要な強調点は語義学的なものであり、定義の副産物として「結論に達する」に過ぎないのである(つまり、個別な論争についての「決定」はそれ自体、用語を定義するもう一つのやり方である)。

 

 用語は、「集団的な起源」以外にも、「転用可能性」の検証を受けるべきである。三つの異なった行動の「領域」に適用されるべきである。親密な関係性に適用されるべきである(個人の発達の異なった段階における発達の過程、個人的な交際)。公的な関係に適用されるべきである(過去と現在の歴史の過程に例証されるような)。芸術作品が組織化されるような集中の過程に適用されるべきである。

 

 例えば、「官僚化」を論じる際には、自身の生を官僚化するあり方、社会が官僚化されるあり方、芸術や創案の外在化と客観化が「官僚的な」体制となるあり方を見る必要がある。我々はこの転用可能性の三幅対を、あらゆる点において、正確な図式でもって描くほど完全な「効率化」には達しない。率直に言って、我々は本の最後に近づくまでは、自分のしていることを十分に自覚することはないだろう(詰まり、暗黙の内の方法をあからさまな方法論として言語化することはない)。過度に正確な図式化を最初から最後まで維持することは作者と読者の双方をうんざりさせることになるので、恐らくその方がいいのであろう。※

 

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 [ちなみに、この本を締めくくる辞書を書こうと決意したとき、我々はある「手がかり」に行き当たった。多くの場所で、引用符が好んで使われているのに不満を抱かれる読者もいることだろう。そのしるしは、言葉が隠喩的な意味合いで使われているという事実を示すものとして正当化される場合もある。しかし、他の多くの場合においては、通常の意味合いでその語を使っているように思われるのである。この反論は、過去においては、答えることができないものだったので、我々は多くの引用符を(常に不承不承ではあったが)取り除いたのである。

 

 しかし、この辞書を書き始めるやいなや、我々はこの引用符が何を意味しているのか理解した。その「魔術」(我々はこの語を恐らく読者が考えているのとはまったく反対の意味で使っている)を理解したのである。辞書が完成させるのに我々がすべきなのは、テキストを調べ、引用符を使って書いた語を定義することだけだとわかったからである。別の言葉で言えば、数年にわたってますます増加し、ページに散乱してきた引用符は、我々の辞書の「発端のあらわれ」だったのである。

 

 しかしながら、通常の意味合いで用いられたにしろ、「隠喩的拡張」によって新たな場に移されたにしろ、引用符のついた言葉をすべて定義する見通しを立てたとき、我々はすぐさま収穫逓減の法則に行き当たった。そこで、極めて重要だと考えられる用語を選んだのである。]

 

 ここで考えられている用語の定義が、「数学的論理」のシンボルによって意味との関連づけをしようとする試みにあらわれているような「永久運動の機械」という理想から人を自由にするというのが我々の信じるところ、或は少なくとも希望である。我々の用語は「中立的」ではないが、「道徳的」である。我々の「拡張」は、道徳的問題自体が、この複雑さの重なりあう「不完全な世界」で複雑になっているのに応じてなされているだけである。転用可能性の三幅対に他から借りたなかに含まれている集団的転用可能性の要素を足せば、最大限の適切さに達することができると我々は信じている。

 

 転用可能性を修正するもう一つの要素とは、「民衆批評」によって与えられるものである。「民衆批評」によって意味されているのは、科学的な用語によって想像可能な「抽象的速記法」と同じくらい「効率的な」近道であり、民衆が典型的で、繰り返し起こる状況、過程、戦略を名づけるために発達させ、或は借り受け、次々に使用してきたものである。そうした用語は、特に、政治、ビジネス、スポーツ、犯罪から発している。こうしたぶっきらぼうな批評の定式化は次のような命名、任意にあげれば、「蒸気ローラー[圧力をかける]」、「ギャングをつくる[ぐるになってやっつける]」、「営業衝動[たたき売り]」、「角をあらわす[おおぼらを吹いた後で失敗する]」にあらわれる。将来、こうした伝承により多くの注意を払うことになろう――教育と印刷が民衆の表現の<想像的な>側面に大きなダメージを与えたとすれば、「民衆の<批評>」には多大な豊かさを与えただろうからである。科学の、特に社会科学の凝りに凝った用語は、それをつくった者が気づいているかどうかはともかく、子供時代の伝承的な言葉づかいの「導き」に従ったものだとも思われる。

 

 確かに、口承の価値の変化のしやすさを考えると、「長期間にわたる投資」による検証は投げやりにし、「短期間にやりとり」される「売り買い」だけを探ろうとしてしまう。一週間のうちに「利益を生むものだけ荷下ろし」できると感じ、また「市場に好都合な」ニュースが「起きた」ときにだけ、信用できないとわかっている在庫に「投資」することができる。それゆえ、しっかり調べることなしにそれをとることはできない。「夜のうちになくなってしまう」ようなものについては、道徳の相場は高くつく。それゆえ、単なる見た目の美しさやくつろいだ気分を与えてくれるものを選んではならない。そうした性質は熱と同じように束の間のものである。我々はその<正確さ>によって選択しなければならない。もちろん、意味を与える物質的諸関係の全構造は「いつしか変わってしまう」こともあろう。そうなると、その価値は消滅する。物質的構造が変化する限り、その象徴の意味も変化する。しかし、新たな構造が古い構造と類似した側面を保持する以上、古い象徴の意味は無傷なままに残るのである。

 

 また、「純粋な」永続性と「純粋な」変化の間には、<急速に後退していく>ときに感じるようなノスタルジックな姿勢が認められないだろうか。エマニュエル・カントの文体を楽しむように、新聞の経済面の言葉づかいを楽しむことができるのではないだろうか。人間の行動の根源を名づけるのに彼らの選ぶ言葉には大きな類似性がありはしないだろうか。彼らの語彙は不自然博物館に展示される「詩の化石であり恐竜」ではないだろうか。そして、カントの「裁判官のような」言葉は、両者のあいだではより柔軟ではないだろうか。

 

 一般的には、我々の「三幅対の」語彙へ向けての計画は次のような形を取る。動機に関する宗教的な語彙を実際的美的過程の命名まで拡張する――動機に関する資本主義的語彙を宗教的美的過程の命名にまで拡張する――そして、動機に関する美的な語彙を宗教的実践的な過程の命名にまで拡張するのである。

 

 別の言葉で言えばこうである。宗教的なものは最もよく内密な事柄を示す(「家族の」メタファー)。資本主義は最もよく歴史的なものを示す(過去と現代の歴史における「抽象的」「非個人的な」要因)。美的なものは最もよく個人的な創造性のたかまりを含む社会的要素を示す。これら三つの語彙の絡み合いは、あらゆる行為の「統合的な」本性を強調する。語義学的な方法にとって「統合」は「よい」言葉であるが、「悪い」言葉を好む読者は「折衷的」と呼ぶこともできよう。

*1:※特に、芸術と社会との関係を論じる際、我々は「内蔵的」或は「模倣の」レベル(俳優としての身体)、「親密性」のレベル(個人的な関係性)、「抽象的な」レベル(我々の姿勢の「容器」となる概念的な材料で、それゆえ模倣的個人的組織化を含む)について語ることができただろう。