ケネス・バーク『歴史への姿勢』 62
... 新マルサス原理 Neo-Malthusian Principle
物理的限界に進む<人間の>増加ではなく、物理的限界に進む<習慣>の増加を示す。ある状況にはそれに関わる<可能な>ゆるみが存在する(それは別の角度から見れば、<必要な>ゆるみと分析することが可能である)。例えば、新マルサス原理の働きによって、資本主義とテクノロジーとの結びつきが、個人事業の急増を<許す>とともにその増加を<要求する>。増加は極限にまで続く。かくして、人口は安定しているにもかかわらず、ある習慣への新マルサス主義的増加によって、始めは集団の小さな部分に適用されることが、最終的には多くの者に当てはまることになろう。
テクノクラートはその「ボトルネック」という考えにこの原理を抜け目なく適用している。「ボトルネック」によって彼らは、いかに大きな容器だろうと、口の大きさが許す以上の量を注ぎ込むことはできないという事実を指している。かくして、「アメリカの生産能力」について、素朴な学生たちが、すべての農場と工場の可能な限りの生産力の総計をもって描いているのに対し、テクノクラートはより「悲劇的」である。例えば、彼らは物理的な必然として原材料は<割り当てられる>のであるから、全生産力が最大限に使用されることは不可能だと指摘する。ある工場は、他の工場が使用できるだけの鉄を受け取るのを邪魔しない限り、使えるだけの鉄を受け取ることはできない。このことに関連して、人口の一定に割合しか生産に雇用されることはあり得ない。多くの人間が生産工程からは外され、流通、サービス関係、会計、娯楽、教育、政治などに必要とされる。このことについては、テクノクラートは、素朴に「効率性」を最大限にまで足していく者より「生態学的な精神」をもっている。
新マルサス主義は、あらゆる構造は「ボトルネック」を有しているという警告を別の言い方で言っているに過ぎない。同じ考えを経済学を越えて、個人的社会的心理学の領域に拡張するものである。例えばそれは、より微妙な形の限界を求めるよう警告する。化学の進歩が農業に取り入れられれば「浪費」が避けられるという記事を読んだことがあるだろう。例えば、それは、いまはトウモロコシの九十パーセントが「無駄にされて」いるが、化学の進歩の結果、すべてのトウモロコシが有効に活用されると語る。抜け目のない化学の活用によって、トウモロコシは最も逆説的な存在となりうるのである。更に読み進めれば、よりソクラテス的な主張とともに重要な発見をすることになる。トウモロコシの「効率化」は(「現在の化学の進歩の段階においては」)化学物質の浪費によって達成されるのである。トウモロコシの変容過程で多くの化学的副産物が生みだされ、化学者たちはそうした副産物をどう有効利用するかの方法を見つけだすことに現在は忙しい。言い換えれば、化学の浪費を得ることでトウモロコシの浪費を避けただけである。
新たな使い道を見つけることで、この化学的な浪費は避けることができる。こうした新たな使用法は、他の産業から失業者を生みだすことになる。例えば、トウモロコシから窓ガラスをつくりだす安価な方法を見つけたとすると、砂から窓硝子をつくる者たちと競争することになる。
「新たな必要」を生みだすことで部分的にはこの競争を避けることもある。新たな製品を発明する。驚くべき「効率化」によって、真面目に働いていた数多くの人間を自動車族へのおべっか使いに変える。或は、ポケットの時計を取りだすことも、頭を巡らせて時計を見ることもしなくて済むような、時間を教えてくれる装置をつくりだすことになるのである。
博愛も極まれば、「新たな必要」は化学的浪費まで活用すると言いだすことになろう。だが、ここでもまたボトルネックはある。資本主義の国では、購買者の金を巡って、他の「古い必要」や「新たな必要」と競争することでしか物を売ることはできない。消費者が新たな必要Aの可能な限りの生産量を買うとすると、新たな必要Bに費やされていた生産力の悲劇的な浪費がそこには含まれる。社会主義経済においてさえ(その原理によって働いている経済を想像できるとすれば)、同じボトルネックが適用されるだろう。
更に、「非効率的な農業」が生活のための「効率的な」方法であることもあり得れば(より微妙な「生態学的均衡」に関する検証から見て)、製品の「効率的な」生産にかける没頭が生活の「非効率的な」方法でもあり得るのである。賃金を得る必要(どんな経済にも適用される)を差し引いてしまえば、<屈辱>とも呼ぶべき状態に最も近づくことになる。
新マルサス主義的原理が我々に問うよう説き勧め警告したのは、人類はどれだけ長いあいだ「進歩」というような考えに熱中し続けるのだろうかということである。どこで我々は限界点、それ以上には何もない疎外に達するのだろうか。偽装浪費学派に心から賛同する者が(問題を別の点に逸らす学派であり、実現を妨げる構造の複雑性そのものに依拠している)社会の目的の正当な根拠なるものを信じなくなるまでにどれだけの時間がかかるのだろうか。(1955年の付記。最近のブラスティック製造の「進歩」は、工業的使用だけに向けられた穀物生産の「効率性」によって土壌を大変枯渇させている。)
「マルサス的限界」に近づいた官僚制においては、「権利」と「義務」とがどんどん分離する。危険と報酬とが交換可能であるという両義性が破壊される(「聖職者」はこうした神話を決疑論的拡張によって維持しようとしているが)。<両義性>が<分離>に取って代わられるに従い、ある階級は義務のない権利を享受し、他の階級は権利のない義務を被ることになる。
この原理のもう一つの重要なあらわれは、可動性と不動性との関係によって特徴づけられる。関係の抽象的な概念は少なからぬ可動性を<許す>。つまり、コミュニケーションの組織化されたネットワークは(物質的、精神的双方において)、ネットワーク内部での大量の移住を可能にする。要するに、ニューヨークからカリフォルニアに、国家との抽象的な関係について「アイデンティティ」を変化させることなく移動することができる。或は、仕事との抽象的な関係についてアイデンティティを変化させることなく中国の奥地に行くこともできる(石油会社をしようとして行くなら)。中世においては、小さな封建的単位に分かれていたにもかかわらず、非常に多様な慣習のあるなかをカトリック教徒としての「普遍的アイデンティティ」を失うことなく旅することができた。
この種の可動性は抽象作用の発達によって可能になる。こうした抽象作用は、最終的には<法>の最大限の規範化に通じる。非個人的な法的関係が個人的な関係に取って代わる。(その違いは、「常にこれを所有していた」、或は「父親が所有していた」という理由で所有を主張する「個人的権利」と、「法的に」それを購入したという理由で主張する人間の「権利」との相違にあらわすことができる。後者の「権利」がより大きな可動性をもたらすのは明らかである。そして、財産のより大きな可動性はそれに対応した財産の「疎外」の可能性を意味している。)更に、権利が個人的な慣習から非個人的な法へ転換することで、議会制へ向かう傾向が生まれる(それは政治における非個人的な法律性に等しい)。
ある構造が可動の機会を最大限に利用する限り、それは可動性を<要求する>ことになる。それゆえ、移動は<経済的必然>となる。中世の構造が分解し始めたとき、その<圧力>から移住は増えた。しばらくのあいだは、過剰な労働が巡礼や十字軍に輸出された。後に、土地を奪われたヨーマンたちは農場から勃興する工業街へ集団的大移動を行なった。最終的には、アメリカへの大量の人口輸出となる。今日のアメリカでは、収穫期には南西部への強制的な移動がある。材木業者の強いられた移動がある。「失業者のたまり」がどこにできるかに応じて、田舎から都市への、都市から田舎への、都市から都市への労働力の転換がある。
こうした極端な可動性がなんらかの「疎外」から生じているなら、それはまた疎外を増加させる傾向をもつことになる。そうした非個人的な関係は、まさしくひねくれた政治家が育て上げることのできた正しい「文化」である。少数の「内部の者」が工業界を支配するように、ごく小さな個人的一団が非個人的な体制を支配するのである。
極端な可動性に向けて心理学的経済的圧力が高まっていくに従い、<不動化>への数多くの試みがなされる。例えば、中世では、教会が徐々に富を蓄え、それを永久的なものとした。経済的現象としての修道院制は、一種の「不動の移住」であり、個人は経済的圧力から逃れることができる。ますます個人事業への傾向を強める病的な「世俗的」経済を捨て、アイデンティティを修道院の集団的経済へ移す。いまの大富豪がその投資によって新たな政策を掲げ、個人はこの政策のもとに暮らし、「魂を救う」ようなものである。(それほどはっきりした形ではないが、金持ちによって残される慈善施設や教育設備は、ある種の<国家内の国家>のようなものとなっている。それがある種「別世界」を形づくっていることは、外側から内部の「聖職者たち」の「所見」を読むとしばしば認められることである。)
或は、価格の安定のような試みも行なわれ、鉄鋼業界は、先の不況の折り、農業では大変なデフレであるにもかかわらず、価格を維持しようとした。表面的には、それは、ローマの皇帝の命令によって行なわれたこと(職業と住居を固定化するよう命じた)よりも不徹底的な不動化(可動性を<要求する>構造に加えられる)であるように思われる。しかし、財政そのものが当時よりもより「精神的」になっており、同じことをするにしても、それに応じた精神化が成されうるのである。
人々は常に最大限のこじつけを伴った世俗的祈りによって増していく圧力に対応しようとするので、混乱は何倍にもなる。例えば、教会は疎外された者に二種類の頽廃からの選択を許した。教会の基準から判断される勃興するブルジョア道徳の「頽廃」だけでなく、教会そのものが<自身の>基準から判断して退廃的なものとなったからである。
今日においても類似した状況が認められる。資本主義に仕える聖職者たちは社会主義の頽廃に対して我々に警告を発する。同時に、腐敗と犯罪の記録が満載された出版物は、現体制の頽廃を主張する。そこで、決疑論的拡張の教えを信じるとすれば、唯一の選択は古い頽廃か新しい頽廃かにしかないことになる(繰り返すが、<どちらの状態も、資本主義自体の道徳的基準に照らして「退廃的」なのである>)。こうした状況下での間違った祈り(犯罪的な法規の増加)は、必然的に<力>の後ろ盾を必要とする。力の使用は<スパイ>を雇うことに通じる。心理学的領域における新マルサス原理の仮借のない働きによって、スパイを雇う者は、スパイされていると感じざるを得ない。堕落に寄与することは明らかである。
終わりにもう一つの興味深い例を挙げておこう。商売において、利害の<衝突>は<政治家たち>によって操られている。議会でのあらゆる軋轢は政治家が代表する利害の不一致を忠実に反映している。政治家たちの争いにおいて、彼らが商売として要求した政策が反映しているのを見下しながらも、実業家は素早くその機会に「働きかける」。子分たちにあらわれる<症候>は軽蔑するが、自分から発する<原因>は高く評価できるのである。
この手軽な救済策は、更に、実業家たちは敵対する相手より、より説得力をもって<自分の商品を称讃する>ことで競争するのに対し、政治家たちは<敵対者を中傷する>ことによって競い合うという事実に支えられている。すべてを足し合わせれば、事業における絶対的称讃の総計と政治における絶対的中傷の総計とを得ることとなる。それゆえ、実業界と政治との一時的な乖離が生じたときには「産業界」には相当の憤慨があり、というのも、議会が互いを調査し合うというのがその「本来の」仕事であるのに、「産業界」や金融を調査し始めたからである。
文化的には、最上の状態は、ほとんどが不動層で、少数の可動的で冒険的な者たちがそれに刺激を与えることにある。理想的な状態においては、可動性はマルサス的限界にまで拡張することはなく、拡張の必要もない。少数の可動な者だけで十分である。実際、少数の人間が十分に可動的であれば、不動層に価値ある貢献を成すことができる(芸術家の小さな可動的集団はそれほど可動的ではない公衆に十分な刺激を与えることができる)。かつては、アベラールのような哲学者であれ、マルコ・ポーロのような旅行家であれ、冒険家たちは固定した慣習のネットワークをそのままに残すという確信のもと、危険を冒して前に進むことができた。前途があまりに困難であれば、立ち戻って、「慣らす」ことができた。いまでは、状況は逆である。教訓を忘れているのは<民衆>であり、そうした口承を守っているのが<冒険家>なのである。不安定なのが<民衆>であり、<芸術家>や<思想家>は事態を安定化させようと努めている。
理想的な社会構造においては、最大限の満足は<実践的>体制によって与えられる。いかなる不満があろうとも、シンボリズムの助けを借りて治まる。しかし、今日、実践的体制によって与えられる満足はあまりに僅かなものであり、シンボリズムはより強烈な働きをするよう要求されている。社会構造を単に<完成>させるだけではなく、それを<つくり>ださねばならないのである。