ケネス・バーク『歴史への姿勢』 63
... ご都合主義 Opportunism
十分な合理性も、現実的なものにするための洗練された方法論もない決疑論的拡張。壁際に立たされることでもある。「世俗的祈り」の低次の形式は、ある党派がその党の原理を「売り渡す」ことを余儀なくされ、できるだけ早く合理化の口実をかすめ取ることにある。この言葉は、心のなかでは知っていながら、間に合わせの言葉を使う個人にも当てはまる。<遠近法>の深化を伴わない<政策>の転換。
ご都合主義は、より複雑な合理的根拠を採用することで、安全に満足のいくよう事実を認め、それを「超越する」ことができないときに、事実そのものを言葉で否定することにある。
AがBのことをご都合主義者だと呼ぶのは、「私はBがしていることを好まない」という意味である。細かく言えば、誰でもが、状況の変化に応じて政策を変えるという意味では、ご都合主義者となりうる。しかし、この柔軟さは、言葉がそれに応じて成熟している限りにおいて、堕落ではなく現実主義的なものとなる。堕落したご都合主義者は「いま言えるのはこれだけ」といって取引する。彼がdにあるとき、a、b、cについての真実だけが語られる。gにいるとき、d、e、fの真実が語られる。堕落のしるしを消し去りたいと望むなら、gにあるときにはgのことを「すべて語る」ことができるだけの正直さと言葉の大胆さが必要である。
ご都合主義に対する非難は、原理と政策との相違に集中する。原理は永遠のものであり――政策は決して再び現れることのない(主要な特徴を同じくするものさえ)唯一無比の状況において具体化される。政治家は政策Aから政策Bへの変化を、どちらも同じ一定不変の原理を体現したものだということで正当化しようとする(状況によって変わる事情のたるみを伸ばすことで、明らかな相違を「斟酌」しさえすれば)。対立者がそれを「ご都合主義」だと言うのは、転換を合理化するに際して、その中間の段階を厳密に示さないからである。かくして、ご都合主義に対する非難は、政治家が必然的にするものとして、歴史決定論、「時宜性」、「事大主義」を強調するイデオロギー的文脈を次々に生みだす他にない機会となっている。
「統一戦線」の正当性について、トロキストとスターリニスとが論じているのを聞いたことがある。トロキストはこう言う、「二年前に間違っていた原理なら、いまも間違っている。スターリニストは二年前にはこの原理に反対した。いまでは賛成する。こうした変節は原理に基づかないご都合主義である。かつては間違っていたのか、いま間違っているのか認めねばならない」と。このことについてのトロキストの発言は間違っている。「統一戦線」は原理ではなく政策である。政策がある状況では正しく、別の状況では間違っているというのは最も自然なことである。そして、政策の<転換>は原理の<連続性>によって動機づけられることもあり得る。「統一戦線」が特殊な状況として正確かどうかはあるが、トロキストの議論は妥当かそうでないかの議論としては見当違いである。マルクス主義は、その政治的歴史的力点において、本質的に「時宜を見る」。この例において、トロキストは時宜を見ていない。その議論は、この例においては、スターリニストの回答にはなっておらず、スターリニストは、状況が事態を変えるという「弁証法的」観察によって政策の転換を正当化することができる。
ちなみに、この例は「決疑論的拡張」が歴史決定論に固有なものであることを示している。息をするくらい容易なことである。歴史におけるあらゆる状況は唯一無比であり、状況において枢要な特殊な要因を測り分類することが必要とされる。歴史に関する「科学者たち」は、「正しい歴史的契機」の測定は<趣味>の問題だと意図することなく我々に伝えている。かくして、あらゆる状況は原理を「決疑論的に拡張する」政策を要求する。要するに、歴史決定論と政治には、どちらもご都合主義についての技術的な問題が含まれている――その技術的な問題を検知することは、語り手が対立者に対抗して仲間を集う世俗的な祈りの手近な方法として成す場合には道徳的なひねりが加えられることとなる(検閲的にご都合主義を非難することに通じる)。