ケネス・バーク『歴史への姿勢』 66

... 世界の再所有 Repossess the World

 

 想像的なものが官僚化されるに従い、官僚体制そのものがそれ自身の新たな問題をもたらす。かくして、現代のビジネスの官僚的な複雑さは、複雑なファイルシステムを必要とする。すべての才能をこうした付帯的な副産物(ファイルシステム)に費やさねばならない人間は、その限りにおいて、「空虚さ」や「疎外」に脅かされる。その労力は非常に狭い領域に費やされるので、彼らの世界は奪われる。そこで、世界を取り戻すよう努力しなければならない。通常、こうした状態が悪化すると、官僚体制の発達に伴って、官僚体制の利益を実際に、或は表面上は享受する階級と、それに比べて疎外され、奪われる階級とに別れ、「階級闘争」の材料が見つかるものである。再所有の闘争は、権威シンボルへの忠誠の転換に関わるあらゆる戦略が含まれることになろう。

 

 歴史の理論的解釈は、奪われた者が世界を再所有する際の第一段階である。理論的解釈によってある目的のもとに自分たちの利害と性格とを組織化することで、実際にはいまだ彼らを抑圧する官僚体制の重みに苦しんでいるにしても、広範囲の再所有を享受することになる(「誰も奪うことのできない」精神的財産)。抑圧された者がその侵害の原因を特定する理論的解釈と、その除去を示す政策がないままに抑圧されているとき、疎外は最大限になる。他方、歴史の理論的解釈によって、彼らは望まれるものと得られるものとのあいだのたるみを伸ばす「神話」を手にすることになる。

 

 ちなみに、そうした神話は、別の場合には、断念を引きだすものとして働くこともある。三つの異なった経済、資本主義、ファシスト共産主義のもと、同じ時間、同じエレベーターに乗った人間を想像してみよう。物質的過程はすべてにおいて同じであるが、行為は、理論的解釈が異なり、個人的行為が位置づけられる集団的目的の論理が異なるのに応じて、異なったものとなろう。歴史の理論的解釈との究極的な関係が心から信じられている場合にのみ、これらの重要な相違が人をしてつまらない仕事を抵抗なく喜んですることを可能にする。ここに決疑論的拡張の要因があるのは明らかである(全くの骨折り仕事を理論的根拠のある仕事と融合することが要求される)。この意味において、我々は「疎外」に向かっている。

 

 金銭は、<それ自体>非個人性と個人主義に向かう疎外を生みだすものである(報酬という純粋に量的なものによって合理的根拠が与えられ、生産された商品について「抽象的な」姿勢を取らせるにいたる)。まさしくこの事実によって、資本主義における骨折り仕事は堪えられるものとなるのであり(満足を純粋に量的に検証する方法を導入することで)、娯楽と気晴らし(骨折り仕事とは正反対の)を買うことによって手に入れることができるのである。その疎外の力は、かくして、疎外に基づいた体系に全体として適切なものである。

 

 奉仕(実際的な行動であれ芸術であれ)に対する最適の報酬は、人間関係を向上させる。金銭はこうした向上の断片を買えるようにするだけであり、しばしば向上を妨げもする(雇い主が、賃金によって雇用者を、その態度如何に関わらず、忠誠心をもつ者として<機能させる>ことができるような場合)。

 

 この姿勢と機能との食い違いは、資本主義の様々な混乱に跡づけることができる。例えば、若い小説家が隣人たちと喧嘩する。喧嘩はいわば、問題のある基準に従ったことから発していた。小説家自身、同じ基準に刺激されるところが多い。多くの点で、報酬や公的な評価についての彼の野心は欲求不満に陥っている。彼はその地を去る。複雑な金銭的諸関係のもと建設されたニューヨークという巨大で抽象的な都市に来る。この避難所から、彼は隣人たちに「仕返しをする」。彼らを激しく非難する作品を書く(書かれたものは新たな仲間たちによって消費される)。生まれ故郷は憤慨する。しかし、また、ある意味で感銘を受けもする。ニューヨークで認められた地元の人材を我がことのように自慢する。そして、小説家は、微妙で親密な社会的関係に関する限り、全国的なラジオ放送といった「非個人的な」コミュニケーションを送り返すのである。彼の作品は「効果的」で、「非妥協的」で、「容赦がない」。彼は恨みを晴らした――成功のしるしに力を得て勝利者となり、故郷でも歓迎される。

 

 だが、彼は集団性を犠牲にして、個人的な救済を得たに過ぎないのではないだろうか。人間関係を<改善>するよりも、<鈍らせる>ことに力を貸してはいないだろうか。可動性と抽象を「利用する」ことで、彼は自分の属する集団に止まらなかった。つまり、徐々に得る成熟によって懐柔し、感性に訴え、ゆっくりと戦略的に自分のメッセージを浸透させはしなかった。いかに彼の作品が「力強い」ものであろうと、想像的な豊かさはほとんど不可能になっている。それはある種の<報告>(心の内に見出しを伴った)であり、障害への恐れを伴った柔軟さに欠けている(こうした障害は、彼のつくりだすものが共同体での統合的な生の一部であったなら生じただろうものであり――ページでの攻撃は面と向かっての攻撃と同じことであったろう)。これが有効性のもつ鈍感化であり、社会的役割を微妙に変えていくことによるより、復讐や、対立によって世界を再所有化するのである。