ケネス・バーク『歴史への姿勢』 67

... 再生の儀式 Rituals of Rebirth

 

 極端に強調点が変わるような時期には特に、芸術にはアイデンティティの変化を描くものが見いだされるだろう。しかしながら、より安定した時代には、個人の成熟はある種の「更年期」としてあらわれるので、同じ過程は芸術的儀式に基づく。もし社会に重要な歴史的変化がないならば、単なる身体的な変化が「新たな状況」をもたらすことになろう。純粋に身体的な意味における「状況」の変化は、公的、法廷的構造との関係によって精神を再組織化することを必要とするだろう。同様に、男性は女性と真の関係を結ぶために「生まれ変わらねば」ならない――そして、もしこの関係が終わるようなことがあれば、新たなアイデンティティの問題を考慮に入れたうえで、再度「再生」しなければならない。それゆえ、安定した構造にあっても、再生の問題(アイデンティティの劇的な変化)は芸術の象徴的構造を活気づけるものであろう。

 

 再生に含まれる象徴的な退行は、コミュニケーションの目的のために、芸術家が法廷的文脈と接触を保ち続けている限り、<公的>で<集団的な>ものであり続ける。それゆえ、成熟した芸術家の象徴的な退行と、自ら法廷的な文脈から離れた内的な個人の神経症的な退行とでは非常に重要な相違があるように思われる。象徴的退行は、芸術家がその媒体を法廷的文脈から引き離す限り、危険なものとなる(別の言葉で言えば、「自己表現」を過度に強調し、「コミュニケーション」を過小評価する限り)。ある程度の引き離しは必要である(特に、コミュニケーションの媒体そのものが一般的な混乱のなかに巻き込まれ、目的と権威との転換が必要とされるときには)。しかし、幸運なことに、法的的な文脈の破壊は、常に完全と言うにはほど遠い――安定した法廷的文脈と不安的な法廷的文脈との相違は単に相対的なものである――それゆえ、著者の個人的な野心によるのでなければ、自閉的な思考にまで完全に退行する必要はない。

 

 我々のマンに対する大きな尊敬、彼が現代の小説家のうちで最も偉大だという確信は、彼が法廷的な文脈を力強く把持しながら象徴的退行の危険に自らの身をさらしていることからきている。ジイドもまたこの同じ危険な行動を成し遂げた作家である。ジョイスの力強い仕事は、「科学的有効性」の目的のため、法廷の安定した文脈を捨てさせるに至った。かくして、他の作家は、彼の<手法>からは多大の刺激を受けるかもしれないが、大きな危険なしに彼の<方法>をまねすることはできない。ジョイスへの称讃を示す現代の作家のほとんどは、彼の発明の<表面的な>部分にだけ引き寄せられているように思われる。彼の<方法>に対する真の称讃は(心から同じ方向を発展させようとすることで証明されるような種類の称讃)は恐らくその作家を大きな失敗へと導くだろう。※

 

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*1:※「再生」という問題については、特に、我々が明らかにしようと努めてきたことを先取りするような、ハロルド・ローゼンバーグの「劇における性格の変化」(『シンポジウム』1932年7月)に注意を促しておきたい。また、モード・ボドキンの『詩における原型的パターン』にも読者の注意を促しておこう、これは文学的シンボリズムについての研究で、この本の校正の段階で読むことができた。この多産な研究を利用できたら、我々の考察の多くはより明瞭なものとできただろう。