ケネス・バーク『歴史への姿勢』 68
... 救済の装置 Salvation Device
時折り、ある種の救済の装置が累積された効率性とともに組織化されることがある。宗教が権威をもった時期には、聖職者の形を取る傾向にはあるが、この装置は聖職者の魔術に限定されるものではない。天気についての話がそうであるように、事業も救済の装置である。意識的であれ無意識であれ、魂を救う、損失を免れる、面目を保つための適切、或は不適切な方法は、いずれも救済の装置である。
こうした装置は通常最上位から始まり、下方に向かって広がる(「民主化」)。かくして、封建領主はもともと、多くの民衆よりも利害のために「救済の装置」により容易に頼ることができた。プロテスタンティズムを通じて、それは次第に広がっていった。その民主化は資本主義とともに完成した。救済装置が広がるに従い、質の低下が明らかになる(例えば、復興金融会社のような機関を通じて、「高性質な」政府援助が金融関係には割かれているのに比較して、個人経営者や失業者には貧弱な援助しかなされない)。それは決疑論的拡張による腐敗かと、官僚化に伴う闘争に結びつく。
いかなる社会主義の形であろうとも、「この不完全な世界」の予期しない、予期し得ない抵抗のある官僚化の過程において、「意図しない副産物」が避けられると信じる根拠などない。歴史過程を位置づける抽象的な集団性は、こうした副産物を認め、斟酌するよう我々を促すに違いない。別の言葉で言えば、マルクスは歴史的過程の分析を共産主義の確立に<向けて>行なった。なぜこの「方向」を共産主義の歴史の抽象的な定式にまで拡張しないのだろうか。非共産主義的な社会でそうすることの正当性は、「等級づけられた段階」への関心からきている。資本主義に集団的要素があるのと同様に、共産主義にも資本主義的要素が存在するだろう。それゆえ、マルクスの社会学を「拡張」し、<不連続性>のうちに保持される<連続性>を考慮する正当性もあるのである。