ケネス・バーク『歴史への姿勢』 70

... 世俗的祈り――或はその拡張:世俗的祈りによる性格構築 Secular Prayer--or,extended:Character-building by Secular Prayer

 

 世俗的祈りは、それを排除する工夫を提案できると考える者によって、通常「言葉の魔術」と呼ばれている。常に印象づけられるのは、そうした工夫そのものが表面上装われてはいるものの祈りの一種だということである。

 

 我々の考えによれば、世俗的祈りは言葉には限定されない。模倣はすべて祈りである。「心因性の病」でさえ、身体的行為における「ある姿勢の実体化」であるゆえに、祈りであろう。※踊り、造形的図像的芸術、音楽、言語化そのすべての模倣は我々の言葉に従えば「祈り」である。そして、それは性格構築に大いに関係している。実際、「祈ら」ない者は、性格を構築することができないのである。

 

 

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 「道徳的行為」としての世俗的祈りは、模倣的、口語的言語を使うことによって<姿勢を導こうとする>ものである。自然科学の立場で、その必要性はピアジェによって説明されており、早い段階の幼児は「さあ、これをしなさい――さあ、あれをしなさい」と自分に言い聞かせながら行動する。また、遊んでいるものの<本質を名づけ>、現実の性質とは異なる名を与えることで命令を下す。木の切れ端を取上げ、法律による命令のように「これは電車」、或は「これは家」という。子供は「斟酌する」ことによって物質的現実を「超越する」。ホイットマンのように、対象のうちに「眼に見えない存在」を見る――これも祈りである。

 

 大人も大人のやり方で同じことをし、世界の混乱を見たときにはそこに階級闘争を「見て取る」。階級闘争を<見る>ことはできない。それは出来事の<解釈>である。出来事そのものは鉄道をもっている者と失業者といった問題に限定される。この立法的な行為(資本主義の基本的な要因として階級闘争をあげること)のうえに、別の「祈り」がなされる。例えば、彼はプチブルジョアかもしれない。しかし、プロレタリアートのなかに立ち混じるべきだと<決める>こともあろう。(中産階級に対するファシズムの魅力は、仕事場で働く労働者たちは、下役のしるしを得るよりも、経営に与るしるしをもっていると自ら決め、祈ることからきている――特に多くの下役は同じ種類の同一化を好んでいる。)

 

 かくして、我々は「言葉の魔術」を消し去ろうとする者とは異なる。消し去ることができるとも思っていないし、その必要もない。単に間違ったものを消し、正しいものを導くべきである。プロパガンダによる「世俗的祈り」、所有関係の解釈と、こうした所有関係に基づいてどう行為すべきかについて他に勧告することによってそうするのである。その祈りは極端に正確でもあり得るし、極端に不正確でもあり得る。人々は通常、不正確なものだけに「魔術」や「祈り」という言葉を当てるのである。そうした用法は急ごしらえのパンフレットには役立つが、結局は「現に進行しているもの」についての我々の観念を明確にするよりは曖昧にする。

 

 法の法廷に関する事柄は、世俗的祈りに優れた機会を与える。議会は悪い天気に対抗して法律を通すという冗談めいた提案は、通常、大いに真面目に実行される。この祈りは警察力によって実行されるので、最も徹底的な物質的現実に裏打ちされている。警察力の割合は、世俗的祈りの精密度を測る経験則を与えてくれる。警察力の割合が増えるに従い、<それ自体>が世俗的な祈りが状況の現実に合っていないという証拠となる。警察力の増加を「斟酌する」ことで(通常、逆の観点から、「犯罪の増加」といわれるが)、警察機能の広がりは、<それ自体で>我が国民がある目が出ることを祈り、それに相当の金銭をつぎ込んでいる証拠ととれる(祈りと現実との「たるみを伸ばす」力を使用し、脅かすことによる)。

 

 祈りの本質は<嘆願>である。その単純な逆転、グロテスクな<戯画>と言えるのは、弾劾、罵倒、放逐、陶片追放、教会の呪いである。それは<論争>である。こうした祈りの逆転化は聖職者のあいだでも、世俗的な対立関係においても盛んに用いられている。(実際、パスカルがジェズイットに辛辣に反対しジャンセニストを擁護する姿勢には、フランスの政治的罵倒の本質が見て取れないだろうか。)

 

 祈りは、対立が融合してしまうような「より高次の」観点をとるときに、いまある争い(然りか否かの選択を含む)を「超越する」。かくして、二人の人間が熱心に二パーセントのお金が支払われるべきか三パーセントが支払われるべきか論じているときに、そもそも支払われるべきではないと言えば、二人を「超越」できる。しかし、その「超越」が、それ固有の誓願と非難を伴った新たな争いの基礎を形づくることになろう。

 

 世俗的祈りの最も腹立たしいもののひとつはパレートに認められる。パレートは熱心に数学の客観性と正確さとをもった「厳密に科学的な」社会学の必要を語る。彼は他の社会学を客観性と正確さを欠いているとして排除する。それによって、彼やその弟子たちは、<自分の>社会学が数学的客観性と正確さをもって<いる>かのように考え、祈ることができるのである。

 

 人々が容易に動かされてしまうという祈りの便利さを示すものとして次のような例が挙げられよう。Aが非常に難解な理論を提示する。あなたはそれを理解することができないが、容易に手にすることのできる救済の装置がある。難解な理論の「本質」に「感傷的な」票を投じることによって、混乱した問題を「超越する」のである。つまり、ドイツにいるのであれば、それを民主主義的あるいはユダヤ的と言い、ロシアにいるのであれば、ブルジョア的或はファシスト的だと言い、アメリカならファシスト的或は共産主義的と言い、聖職者なら、冒涜的だとする、等々である。このことは単に攻撃しているのではない。象徴的に社会全体を自分の味方に引き入れているのである。こうした「本質」の選択は、<それ自体>歴史的運動全体を問題の理論と対決させることになる。「目的の正当性」の説は、イデオロギー的な問題に物質的利害の争いが含まれるとき、極端な形の祈りが行なわれる可能性を警告するだろう。

 

 「世俗的祈り」は「性格構築」を含み、そこで人は姿勢、生の論理を選択した共同性のなかで形成し、共同性の判断を参照しながら行動を決めていく。

 

 カッシーラーソクラテスの言語的な几帳面さに注意を向けている。ソクラテスは意味深いと感じたあらゆる関係と相互関係の正確な名前を見いだすまでは<徳義に適う>とは感じることができなかった。我々の考え方に従えば、ソクラテスは「世俗的祈りによる性格構築」に専心していたのであり、それはギリシャ悲劇の偉大な作家たちが、新たな法廷的口承とギリシャの始めからありいまなお残っている叙事詩的英雄主義の伝統とをなんとか統合しようとしたのと等しい。ソフィストの洗練は初期の敬虔さに対する単純な否定だった――ソクラテスは「否定の否定」によってそれを「超越」しようと試みたのである。彼は法廷的対原始的という対立を望んだのではなく、原始的プラス法廷的を望んだ。この「より高次な総合」への衝動を彼は端的に「ダイモン」と呼んだ。彼の会話における<定義づけの行為>(「劇」としての弁証法)は、五幕にわたって「敵」という言葉を再定義化するイプセンの『民衆の敵』と比較される。実際、イプセンの劇を見ると、題名がゆっくりとあらわれてくるさまを見て取ることができ、劇作家が<自分の>意味を受け入れさせる準備の整うまでは、登場人物の言葉によって完全な表現がなされることはないのである。

 

 現代の批評家のなかには、教訓的な領域(「プロパガンダ」、道徳教育)において「世俗的な祈り」のあらわれを認めると、「意図的な文学」だとして激しく非難する傾向がある。しばしば「意図」という語に「頑迷さ」という意味合いを密かに混入することで勝利を得ることもできる。こうした低劣化は、確かに多くの典型的な十九世紀の哲学者たちに認められる――しかし、理解よりも議論に勝つことに関心を抱いているのではない限り、論争的で非難を旨とするこうした姿勢をすぐさま取るべきではない。こうした場合、非難する者自体が、あまりに単純なレベルで祈りを行なっているのである。

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※別の言葉で言えば、精神と身体との双方向の関係は、身体から精神に移ることもあれば、精神から身体に移ることもある。動揺を模倣することで動揺の状態に導かれることもあるし、動揺の状態が動揺の模倣に移ることもある。それゆえ、罪や恐れといった精神状態は、それに応じた内臓の表現(肉体と神経の働きにおいて)を引きだすことがあるし、その逆もあり得る。こうした考えを「心因性の病気」に当てはめると、心的病にかかっている者は俳優だと言えよう――病人としての役割を演じることで、自分の姿勢を保つ模倣的表現(内臓的腺的反応をも含んだ)を取っているのである。かくして、もし心的な役割が「退行」へと導くなら、喘息のような「退行的な」病気を発達させることで「模倣における行為を完成」させるかもしれない(ある種の喘息が子宮での状態を再び獲得しようとする試みを象徴化しているという精神分析の仮定を正しいとするなら、呼吸の障害は呼吸しない子宮内での胎児の模倣ということになり、それがマルセル・プルーストのような過去の想起者に当てはまると思われるのは、彼のコルク張りの部屋は現代科学の進歩の助けによってつくりあげられた客観的な子宮の一種だからである)。

 こうした仮定を「同質療法」の戦略と結びつけると、心的病はある種の「逆転したクリスチャン・サイエンス」によって治癒する可能性があると考えられる。つまり、「自己暗示」が姿勢を「超越的に」変化させることで身体的病を食い止めようとする試みであるなら(身体は、演者として、姿勢の変化に与る「芸術的相手役」として身体的病から身体的健康へ模倣表現を転換する)、<身体的>不調を故意に植えつけることによって<精神的>不調を食い止めるという逆説的な試みを考えることができないだろうか。換言すれば、患者の症候がなんらかの理由から「適切な模倣の相手役に恵まれない不満」をもっている場合、精神病理学者は、<患者に喘息を与える>物質的手段を見いだすことで、心的症候による完全な破壊を食い止めることができないだろうか。換言すれば、少量の<身体的>病が<心的>病による完全な荒廃に対する同質療法的予防接種として使えないだろうか。

 この種のことは、インシュリンを投与することで早発性痴呆を食い止めようとする実験で進められているように思われる。曖昧でわかりにくい<心的な>恐れがもたらす惨状に対する免疫を与えるものとして、<身体的な>危険を伴った恐れを与えることは可能ではないだろうか。地震のようなより大きな苦難に遭うことで社会的内気さを克服するように、<恐れを使い果たしてしまう>のである。曖昧な心的状態を扱いやすい客観的な虚構に移すことによって、恐怖を<暴く>ホラー小説の働きについて思い返してみよう。<身体的な>病気を接種することで、障害の焦点が、曖昧で扱いにくい心的な恐れから心理学的に<より扱いやすい>目に見られる形に移るなら、同様の過程が働いていると言えないだろうか。

 かくして、「逆症法的解毒」のかわりに、「同質療法的感染」の「連続した段階」を得ることになろう(「悲劇」における「おまじない」の戦略であり、より大きな災厄を免れるために小さな災厄を組織的に受け入れる)。

 我々のほとんどの心理療法についての反対は、いま見てきたように、些細なことを体系化することによる完成だけが完成とみなされることにある。道徳的ではないばらばらの扱い方は非道徳的である。反社会的に働く社会的共同性を欠いている。より大きな社会的文脈に寄与するように、その個人主義的で、孤立した共同性の幅を広げる必要がある。つまり、治療についての理論が再道徳化されねばならない。

 その相違は次のような例を考えれば理解できよう。ある人間が宗教的な恐れを科学的に論破するとしよう。そのように神秘を「消滅させる」(結局のところ、「神秘は存在しない」と言っている)のと、同質療法的姿勢を<完成>させ、「神秘は存在する、しかし、それを扱うことのできるものに還元しよう、なぜなら、あなたは完全なる神秘には我慢できないだろうから」と言うことの違いを考えてみるがいい。