挫折と充足のアンチノミーーーバルザック「あら皮」(1831年)

 

 

 周囲のものに「なんともいえない恐ろしさ」をおぼえさせた青年、ラファエルが賭博場に入ってきて、一枚の金貨を賭ける。賭けに負けた青年はさして心を動かされた様子もなく、賭場をでる。異様さを感じさせたのも無理からぬことで、青年はこの夜自殺するつもりでパリをぶらぶらしていたのである。もうすでに死ぬことを決めたからには、特に急ぐ必要もないわけで、青年は賭場をでると、ふと目についた骨董品屋に入った。そこでついはずみで自殺するつもりだと伝えてしまった店の主人に、サンスクリット語で命と引き換えになんでも望みをかなえるといった意味の詩句が彫りつけられたあら皮を見せられる。店の主人はすでに世界中を旅行し、知るべきことは知り、望んだものは得ている自分にとっては必要のないものだといってそれを青年に与える。

 

 骨董品屋をでた青年は、友人たちに出会い、パリ中の言論人たちが集まる「魔宴」に参加し、自分がいかに自殺を決意するまでに追い込まれていったかについて語る。それはしどけなく欲望に身を任せるかのようでありながら、最終的なところではそれをはねつける「つれない女性」に翻弄され破滅したことが原因だったのである。骨董屋の主人はメフィストフェレスであり、言論渦巻く夜会はワルプルギスの夜であり、とゲーテの『ファウスト』を下敷きにしながら、世紀末デカダンス文学からフィルム・ノワールに偏愛された宿命の女というテーマを先取りし、これまた古くからある三つのお願い、神様が三つだけ願いをかなえてくれるとしたらなにをお願いするかという本来小咄程度の題材をこの小説は圧倒的なエネルギーで描きなおしたものなのである。この題材でもっとも一般的なのは、間違った願いをしてしまい、それを取り消すために最後の願いを使ってしまう展開だが、この小説では、願いが果たされるたびに、しかもその願いの困難さに比例して皮が縮んでいくらしい。しかし、貧乏な学者であった青年が、いったん貴族の称号を得て、パリでももっとも富裕な階層の一員となってしまうと、あら皮とは魔法の道具ではなく、生の相関物でしかなくなってしまう。生きていくことに欠かすことのできない心情の移ろい、もうちょっと寝ていたいとか、なにかおいしいものが食べたいな、といった思いが、願望とその充足に関わっており、あら皮を縮めていないともいえないからである。さらに、金銭的な余裕を得てからは、特定の現世的なものに欲望を抱くわけではなく、ラファエルが求めるのは作者であるバルザックその人のものでもあったろう世界とその個物が一直線に交差するようなものだったからである。

 

下劣な金銭なんかまきちらしたところで、おもしろくもおかしくもありはしない。おれは人びとの生活、知能、精神のすべてを使用しつくして、この時代を再現し、この時代の総決算になってやろうと思っているんだ。(山内義雄鈴木健郎訳)

 

 

 

 ラファエルは、以前の下宿先の娘であり、こちらも父親の遺産によって裕福になったポーリーヌと結婚するが、すでに願望と充足の均衡を崩してしまった彼は、幸福に安住することができない。バルザックの面目躍如しているのは、ラファエルが運命を従容として受け入れるのではなく、あら皮を動物学者のもとに持っていって、それがなんの動物か特定しようとし、次には機械工学者のところに行き、機械によって皮を引き伸ばそうとし、次には化学者のところで特殊な薬液によって影響を与えようとする。いずれの試みも失敗に終わり、ラファエルは病気になり、各所の療養所では爪弾きにされる。しかし、この小説が強欲な欲望の挫折とも一概にはいえないのは、仲間外れにされた孤独のなか、山のなかをさまようなかでも次のような啓示的な瞬間と無縁ではないからである。

 

風雨に馴れ、岩穴にすまい、あらゆる植物の習性を知り、水の流れ、水の脈をきわめ、動物にしたしんで、ついにはこの土とまったく同化してしまった。いわば、その魂にふれ、その秘密に通じるまでになったのだ。彼は、どんな世界のかぎりない形態も、あるひとつの物質が発展したもの、あるおなじ運動が組みあわされたもの、要するに、行ない、思い、歩み、成長した全能な存在の偉大な息吹にすぎぬものと考えた。そして、この存在とともに成長し、歩み、思い、行ないたいと念じた彼は、自分の生命を岩の生命に擬して空想にふけるというありさまだった。

 

 

 汎神論的で、ほとんどヘンリー・ミラーの一節だといってもいいようなもので、果たしてラファエルの生が魔的なものに魅入られた挫折であるのか、ある種の勝利であるのか、即断することはできない。