ケネス・バーク『歴史への姿勢』 74
... 超越 Transcendence
ある観点から見れば、AとBは「対立」している。「超越」によって意味されているのは、対立がなくなるような別の観点の採用である。現在のところ、それに最も近いものとして可能なのは、言葉によるものである。実際のところは、そうした言葉の使い方は、真の超越と言語的装備の空虚な取得との相違をなす重要な質的要素を完全に軽視することになる(フランス語で言うならば、<知ったこっちゃない>ということになろう)。
かくして、ある行為は効率的で一般的な簡略化によって、「酸っぱい葡萄」として暴露的に動機づけられるかもしれない。喜劇的枠組みは(「聖人伝」と「偶像破壊」という両極端の中間である)「酸っぱい葡萄プラスなにか」と言うだろう。しかし、「酸っぱい葡萄プラスなにか」と言葉で<言うこと>で「たるみを伸ばし」ながらも、その姿勢はいまだ化学的に純粋なまでに「酸っぱい葡萄」に止まっている反動的な暴露家もあり得る。そうした単純な「世俗的祈り」は、喜劇的枠組みへの「超越」の道を準備することで、<結果的には>その人間を「救う」ことになろう。しかし、言語化<そのもの>が質の変化を示すものではないだろう。
原始的民族は加入儀礼において超越の過程を理解しており、個人の生の異なった時期に象徴的に新たなアイデンティティが与えられ、部族内の新たな集団に参入する。教会は聖餐によって同様の過程を導こうとしている。荒々しい新入者のしごきの背後にも、身に迫る恐怖や苦痛によって新たなアイデンティティを印象づけようとしていることが見て取れる(個人のアイデンティティを集団的アイデンティティとの関係において新たに定義づけようとする)。ジャン・ピアジェのような純粋に世俗的な科学的な研究者が、子供が「自閉的な」思考から「社会的」思考への変化するあり方について調査している(或は我々流に言えば、前法廷論弁的な要素を法廷論弁的な要素に統合しようとする試み)。
我々の用語「下方への超越」と「上方への超越」もまた、せいぜい不手際な近似値に止まる。もしある人間の行為が「神の更なる栄光のために」なされたと言われるなら、その婉曲語法は、「上方への超越」の可能な限り最も単純な例である。(異端者なら、そうした「精神性」は必然的に意図的な肉体の降格を伴うと理論化することで、極端な結論へ向かう「論理」を引きだすかもしれない。)人間の行為は「甘い汁を吸うためになされる」のだという「暴露」は最も単純な「下方への超越」の例である。(こうした素朴な物質主義は、「弁証法的唯物論」の異端的なやりすぎである。)
次のような幅広い領域を視野に入れることで、「超越的に」人間の動機を解釈することができる。即ち、人間の行為は、神のため、理想のため(人間性、文化、正義、真理という)、共にいる集団のため(政治的そのほかの)、自分自身のためになされる。歴史的-集団的領域においては、一般的に、<理想>と<目的を共有する集合体>とが入り混じっている。