ケネス・バーク『歴史への姿勢』 75

. 結論

 

 最後に、主要な点を簡単にまとめておこう。

 

 名前には行為と命令とが含まれている。(ピアジェが示したところによれば、子供は木片を取り上げて、「これはボードだ」と言う。次に「さあ、海を渡るぞ」と言いながら木片を動かす。時には、名前と命令とが解きほぐすことができないほど入り混じっており、命令に名前が<含まれている>こともある。)様々な現象を同じ名によって名づけることは、そうした現象に対する戦略を組織化することである。

 

 こうした行為は、初歩的な生物学的、模倣的なレベルで言うと、詩人が(例えば)動揺を感じたときに、揺れ動く音やリズムを示し、静寂を感じるときには、滑らかな調べを選ぶときに生じる。

 

 こうした言語的な振り付けは言語学的行為の物質的基盤である。人は、人間の身体という「本来ある経済設備」から生じる諸価値の「上部構造」を操作することによって行為を具体化する。(かくして、「経済組織」としての身体はアドレナリンの分泌によって筋肉の緊張を高め、恐怖や恐れといった感情の「上部構造」と相互的な関係をもつことができる。或は、身体は捕食のためには掴むという<行為>が必要である――そうした行為は掴む<姿勢>を伴う――掴む行為において唇を堅く閉める傾向があるとすると、詩人が掴むという行為を<踊り>、相手との接触の姿勢を表現するには「m」を頭韻にすることになる――或は、別の場合に、「拒絶の踊り」をするなら、「p」の頭韻を選択することになろう、等々。)

 

 しかし。

 

 こうした行動の基本的な領域は多様な社会的附加物の下に埋まっている。例えば、「本来ある経済設備」は<社会>経済の「持ち株会社」によって共有される「経営会社」の一部である。社会経済は共同の行為とそれに対応する言語的なやりとりによって拘束されている。そうした言葉は純粋に模倣的なレベルは「超越」している。例えば、「ファシズム」という語は、社会的な意味作用によってのみその意味が決まる。それは「容器」となる。それを支持する者によって使われるときの「行為」は反対者が使う場合とは異なる。

 

 社会的な附加物の結果として、言語は圧倒的にこうした「超越的な」言葉でもって構成されることもある。科学的或は哲学的記述の抽象性は、模倣による主張にはあまりに複雑すぎる。その発音に関連するような基本的な振り付けがないので、「音に関しては便宜主義的」である。だが、その使用には「投資の回収」や「後回しにされた消費による報酬」などの「行動のプログラム」が含まれており、数学的シンボルから生じる「権力-知識」が含まれている。抽象の言語には、派生的な意味でのみ「行為」であるような言葉が満ちており、詩人は可能な限り、模倣的な内容をもつような音とリズムの文脈を使用することでそうした領域を「再生する」(ファシズムに敵対する者が怒りの形象と音との文脈で言葉を使用するように)。

 

 「模倣的な」レベルは、最初は子供時代の「前政治的」或は「前法廷弁論的」(「うち解けた」)経験の「親密さ」のレベルと絡み合っている。この「うち解けた」レベルは権威主義的なものとなるが、それは我々が世界全般と向き合う最初の必然的な形式であり、世界がもたらす情報の手がかりは常に後の我々の編入される姿を予示するのである。

 

 このレベルは次に、成人の「抽象」によって「超越」され、「法廷弁論的な」ものに関する姿勢を組織化するのに多くの「架橋の装置」が学ばれる。

 

 こうした三つのレベル(模倣的、親密さ、抽象)は複雑に相互に絡み合っているが、「世俗的祈りによる性格造形」と名づけられる。あるものの名はあらゆる点において、行動の検証のもとつけられるので、命名の正確さや視野の取り方は「道徳的な」行為となる。それゆえ、用語法はそれを取り巻く状況と同じくらい柔軟である必要がある。それゆえ、「既に堕落した状況を正確に命名することで再道徳化する」ための「計画的な不調和」が必要となる。状況と同じくらい柔軟な用語を得るには、抽象的な概念を単なる隠喩と考え、そのカテゴリーの硬直を「取り除く」ことで、「決疑論的拡張」や「転換可能性」の検証を行なう。

 

 公的な文法、「集団的」財産の「なかに自らもまた財産をもつ」個人は社会化の過程に関わる。社会化の必要は人間関係の本性のなかに、生産と分配、それに対応する権利と義務との概念に含まれている。そして、こうした経済的基礎との関わりにおいて形づくられる言語の本性に含まれている。

 

 つまり、言語によって形成される精神は<公的な文法>によって形成される。この公的な文法はそのあらゆる箇所において物質的要因を含んでいる。それは物質的な「下部構造」に合った「上部構造」である「諸価値」の領域を形成するよう導く。

 

 言語の「社会的」側面は「理性」である。理性は公的なものとの関わりにおいてある主張を「検査する」ための複雑な技術である。こうした言語的な装備を抱え込むことで精神が形成される限り、様々な程度における正確さと視野において「無意識的に」この検査技術を使用することを学ぶ。(別の言葉で言えば、「後ろ向きに考える」方法が形成され――それとともに「前向きに考える」ことを学ぶ。)

 

 それゆえ、言語と理性に含まれるものに(ロゴス、語)個人に影響を与える関係の<社会的>基盤が存在する。

 

 このことと結びついて、社会の「正当性」やその目的と方法の正当性を感じ取る必要がある。この正当性は「所有」の物質的な面と価値とを結びつける権威シンボルに焦点化するようになる――所有者としてのあり方と振るまいの規範とが結びつくことになる(「マナー」と「スタイル」)。人は構造の記章の「うちに所有」していると感じられる限りにおいて、「構造の正当性を代わりに所有する」こととなる。この意味において、貴族の記章を「所有していた」封建制農奴たちは、自分たちの振るまいとそれに応じた倫理的、美的な規範を封建制の「論理的達成」として信じることができた。記章は、明らかに、「階級闘争」が前面に出る限りにおいて、「論理的達成」をあらわすことを止め、代わりに「対立する」特権をあらわすようになる。そうした時期に、作家は特権階級の記章(倫理的美的規範)に従ってスタイルを発展させ続けることで「象徴的に自慢」し、「身代わりとなって特権を所有する」ことができる。

 

 構造の正当な根拠への信頼が損なわれる限りにおいて「疎外」が生じる。物質的疎外、或は精神的疎外、または双方を同時に被る。

 

 ここで「権威シンボルへの忠誠を転換する」ことを含む、適切であることもあれば過剰であることもある様々な戦術が生まれる。あらゆる法廷弁論的な装備が「法律家たち」(公式的、或は非公式的な)によって捉えられ操作されることで、「理性」の諸検証を経て社会的目的の概念(所有に付随する概念)が再定位されるように、「窮地に追いつめられ」「シンボルの密かなやりとりをする」党派や分派の問題が生じる。喜劇、悲劇、諷刺、笑劇などの戦略は、作者の私的な状況と一般的な状況との関係によって形成される。また、歴史の異なった時代に行きわたった<集団的な>戦略にも(力点や遠近法のより幅広い側面)、そうした文学形式の巨視的な対応物が認められる。(歴史の必然性は、あらゆる劇を進行させる「悪役」である。)

 

 歴史的文脈を強調することは、対応する「法的な」強調を呼び起こし(過度な強調の「原因」となることもある)、それが単なる「名称」であらわされるのとは異なった経験的な、受けを狙った内容を盛り込んだ「容器」となる。同様に、経験の一側面が組織化の容器となりうる(例えば、家族や仕事は生の他のすべての側面をあるべき場所に収める支点になりうる)。そうした「容器」の精妙さや複雑さは、ある程度その隠れた内容を「割り引く」手がかりを得たとしても、言語化の能力を超えている。歴史の不手際で不格好な進行では、シンボルの「連合した推進力」は(シンボルを額面通りに、単なる計数機や科学的ラベルとするのではなく、図式化し得ない感情的意味合いを含んだ「容器」にする)、「世俗的祈りによる性格造形」に結びつき、それは最終的には権威の支配的シンボルへの姿勢、彼らが公然と或いはごまかしによって同一化する経済構造への姿勢、社会的政治的連帯に向けてのプログラムへの姿勢を含む。

 

 このことから、我々は「再生の儀式」を含んだ「共同の同一性」の問題へと赴く。そうした儀式を考えることは、象徴的浄化における悲劇的スケープゴートの使用を考えることに向う。そのことは悲劇と犯罪との両義的な関係、危険、不安、死への「類似療法」と「逆症両方」との相違を認めざるを得なくする(それゆえ、芸術や行為に関するあまりに単純な「公衆衛生」理論の批判に赴く)。

 

 批評家として全体的状況に直面したとき、我々を先導するのは「喜劇」に関する我々のスローガンである。我々が提示した人間関係の図式がすべて捨て去られたとしても、それだけは擁護されよう。恐らくは、<いかなる>図式に内容を与えるのも<姿勢>であるから、最も重要なのは我々の図式でも、他のいかなる図式でもない。重要なのは、ジイドなら言うであろうように、屈服ではない謙虚さを与えてくれるような言葉を探し続けることにある。

 

 喜劇の用語は、そうした理想によって組立てられるべきである。しかし、動機に関する喜劇的用語法は、人々が戦争をしている限り、或いは、戦争の脅威のもと生活している限り、達成できないと我々も認める。軍国主義は、判断基準を混乱させる極端な英雄的婉曲語法を自然につくりだす。だが、戦争そのものにさえ、平和の範疇に収まるものが多数存在する。生産、配分、行政の平和な日常業務は、軍隊による破壊が進行している間でさえ、続けられねばならない。戦争が単に物理的危険をもたらす行為ではなく、組織的な平和をもたらそうとするものである限り、喜劇の領域は無傷のままに残るのである。