ケネス・バーク『歴史への姿勢』 78

II

 

 第一に、<人間としての種的な>要素があるのは明らかである。この世界会議がどのようなものであろうと、それは言葉を使用する(シンボルを使用する)動物の集まりであり、様々な場所から集ってはいるが、他の動物と最も決定的に区別される属性、つまり<話すこと>に依存しているのは共通である。教育の哲学がすべて話すことの体系化であり、話すことにある自由と権威との混合(ソクラテス的対話の「批判的議論による指導」)を最良の手順として採用しているように、この組織がとりわけ受け入れるべきは、話すことの本質によってもたらされる秩序の原理である。

 

 しかし我々はそこに止まることはできない。話すことは人間の動機としてあまりにも普遍的すぎる。我々が「七つの職務」と呼ぶものを導きとして、動機の概要を描くには、より普遍化の度合いが少なく、しかも、ある特別な人間がある特別な機会にある特別なことをどうした行なったか尋ねる場合のような極端な動機の特殊化も避ける必要がある。

 

 確かに、人間が話をする動物の典型だとすると、教育の主要な関心とは次のような質問、つまり、「話をする動物とは何を意味するのか。この特殊な能力の利点と<可能な危険>はなんであるか。言語はどれ程我々を自由にし、どの程度我々を虜にして、自然という『故郷』から引き離すことになるだろうか」といったものとなろう。教育がこの問題に主要な関心をあてるべきなのは間違いない。だが、我々が「七つの職務」ということで示唆した<行政的>姿勢からすると、こうした考え方ではあまりに一般的すぎる点が目立つ。話すことは、動機としてあまりに「大き」過ぎる。

 

 しかし、国連の例を心に留め、教育の目的にとってより特殊なものは何かと考えると、次のように自問できる。つまり、話す能力と根本的に絡み合った人間に特殊な能力、他に目立つ素質とはなんであろうか、と。答えは、道具を使用する能力である(或は、そのなかでも、道具を作る能力である――その意味は、多くの動物は初歩的な道具を使用することができると言われているが、道具を使用して道具を作るために道具が使用されるなどといったより複雑な段階にいたると、人間という動物だけしかいない領域に移ることになる)。デトロイトの工場は、その装備や材料を集め、正確な使用法を示し、必要な書類を保存しておくのに必要な技術的用語法なしに設計し、建設し、運営しようとすれば空想に耽っていると言われるだろう(工場には、経理や事務が機械工と同じように不可欠である)。

 

 テクノロジーが我々の語彙につけ加えた技術的用語の不格好さは、テクノロジーの発達が、そうした概念化や命名のもとになったものと同時に、言葉を使用し発明する能力といかに密接に結びついているかを理解する助けとなる。そこで、我々の次の段階では、国連における用語法の問題と、道具を作るものとしての人間(ホモ・ファーベル)と言葉を使うものとしての人間(ホモ・サピエンス)との関わりを結びつけ、次のような命題にたどり着くこととなる。即ち、教育の<今日における>(「常にある」教育とは異なる)理想的な質問とは次のようなものである、「テクノロジーの諸条件によって次第に必然的なものとなった世界規模の帝国の必要にいかに人間を適合させるか」である。