ケネス・バーク『歴史への姿勢』 79

III

 

 ここで、ある挿話をつけ加えておこう。まず第一に注目すべきは、「道具使用」や「道具製作」から「テクノロジー」へと移行することで、我々は「普遍」や「一般」から「世界」へと移行した。(つまり、我々は動機についての「巨視的な」観点と<特殊な>観点の間のどこかにいる)。我々は「世界帝国」という言葉をテクノロジーとの関わりで使うが、それは、テクノロジーの広範囲にわたり、変化し続ける必要とが、結果的には場所や文化的親和性において広く散らばっていた領域が<全体として>まとめられることを意味しているからである。もしニュージャージーの工場が、その工程で遠く離れたアフリカで産出された原材料を使用し、ある関わりを打ち立てるなら、その限りにおいて、アフリカの一部とニュージャージーの一部とが「テクノロジー帝国」で一つになったのである。各領域は、結果的に、この取り引きの諸条件のなかで互いに「隣り合っている」。

 

 こう考えると、「帝国」は「絶対的規範」と同一<ではない>。我々はこうした「テクノロジーによる合併」への転換に中心的な政治的権威が必要だとは思っていない。<その反対である。>こう考えたとき、我々の「テクノロジー帝国」という言葉は、単に、テクノロジーはどれ程変動するものであろうが、世界秩序の諸条件を確立するという考えを述べたものに過ぎない。そして、国連という制度は、人間の一般的な言葉を使用するという特性に関する限り、問題を最もリベラルな形で解決するように思われる――というのも、世界秩序のなかでは、常に少なくとも、中心的な権威によってことを収めようとする誘惑は存在するにしても、そうした誘惑は、「帝国」としての状況に刺激された位階的想像力や野心が差し迫ったものとしてあるとき、それをいかに割り引いて考えるか教える教育者たちの警告すべき問題なのである。

 

 これで本論を始める準備ができた。