ケネス・バーク『歴史への姿勢』 82

VI

 

 こうした七つの職務、或いは「義務」は、動機づけの観点を含んではいるが、行為へ導く<動機>よりもむしろ<行為>についての名称である。人は、そう「すべき」だと感じるが故に統治することもあり得る。或いは、部下に自分の意志を押しつけたいという狂気じみた欲望から支配することもあり得よう。個人的で秘かな不安の代償として支配するものもいるかもしれない。他の職務についてもその動機について問えば、同じような可能性の幅が認められる。

 

 端的に言って、それぞれの職務で、人は特殊な状況において与えられる任務に最適な人格を導く。また、七つの職務は相互関係も必要とする。あるタイプの支配者はあるタイプの部下に最適であるかもしれない。あるタイプのエンターテイナーはあるタイプの観衆を必要とする。A氏を治療した心理学者は、B氏を治療するのに必要な病名の持ち合わせがないかもしれない――等々。

 

 人間の職務に関する新ストア派的な観点の背後には、通常、その<家族に>始めからある雑多な個人的動機の領域が存在する。そうした状況は、それらが一部分である包括的な<公的>状況を反映したものではあるが、子供には主に<個人的な>ものとして経験される。かくして、まず最初は、これら七つの職務はすべて、もっぱら直接の家族やそれに近しい人たちによって(かかりつけの医者のような)様々になされるものと感じられる。次第に<外側の人間>(或いは「向う側」であろうか)がそれぞれの職務を行なうものとして認められる(機械を修理し、神秘的な動きをもたらす修理工、通常、「守る者」というより<罰する者>と考えられる警察官、サーカスの道化師の単純化された顔一般とでも言えるような顔、けたたましいオートバイの先導で沈黙のうちに走り去るリムジンから覗かれる要人の顔もそれに似ている、聖職者の僧服――等々)。こうなると、我々がどれだけ基本的な職務に還元しようと還元しきれない人間の動機の密林に連れ戻されることになる。

 

 この観点から、共和制の死によって職務を剥奪されたときに書かれたキケロの『義務について』(De Officiis)を再考してみよう。威厳が必要である職務については、キケロは、市民として責任のある者に最も見合った<美徳>との関連を考えている。かくして、彼はこの本の大部分を「あらゆる義務の源」である「正しい生活の四つの源」を論じることにあてている。それらは思慮、正義、高潔、自制である(副次的に、これらの美徳を歪曲するような動機についても考えている)。こうした性格の者が職に収まるなら、国家運営のすべてが常にうまくいくであろうことは殆ど誰も否定はしないだろう――特に、キケロが非常に骨を折って、真の利益というのは、これら四つの美徳に反して考えられる場合があったとしても、実際にはこの美徳と同一視されるのだと「証明」(少なくとも彼自身の満足のために)しようとしているだけになおさらである。

 

 その蓄積は、彫刻家が公園の騎士像で伝えようとするような「強さ」で最高潮に達する類のものである。というのも、それらは、正しいにせよ間違っているにせよ、一般大衆が主導者として騒ぎ立て喝采を送る歴史的人物と結びつけるものだからである。

 

 ポープの言葉、「枝がたわんだ方向に幹も向う」に沿った、現代の典型的な動機の理論は、人間の職務との適合性の由来を考えるとき、全く異なった方向から赴くことを好む。子供が積木で遊んでいるのに未来の建築家を見ようとする。或いは、他の非行少年たちに規則を守らせるようにしている非行少年には未来の警察官を見る。病的で、身体的に弱く、醜くて、小さいという、ごく普通に見れば悪いところばかりな子供を将来の世界の支配者と見る――等々。

 

 そう、歴史という蒸留機のなかでは、この種の化学的変化も起こりがちなことだろう。キリスト教も、美しい王子を探すなら、まず醜いアヒルを捜すべきだという教えしか残してくれないにしても、動機づけの理論について多くのことを成し遂げるだろう。或いは、醜いアヒルを探せというのも異教から学んだ教えだろうか。いずれにせよ、福音の原理にはそうした企図が認められよう。

 

 キケロは逆説的な可能性については飛ばしてしまおうとする傾向がある――しかしその可能性は常につきまとっており、まさしく市民の美徳に関する巻から始まっている。というのも、それは不肖の息子にあてて書かれており、恐らく妻にはよくわかっており、疑いなく息子が知っていたのは、老人が雄弁によって讃辞している騎士的な美徳というものが、それが権力を掌握することによってのみ国家が繁栄できるというのがいかに正しいにしても、根本的に疑問視されているということだった。いずれにしろ、『義務について』を書いた一年の後、大キケロは殺害され、それはわが美妙なるシェイクスピアが『ジュリアス・シーザー』の悲劇で、威風堂々たる役割を振り当てた敵役(マーク・アントニー)によって雇われた暗殺者によるのは明らかである。