ケネス・バーク『歴史への姿勢』 83

VII

 

 どのように締めくくりをつけたらいいだろうか。動機に関する「職務の」理論が純粋に「個人的な」領域を含んでいるように(その根は子孫をも巻き込んだ<自然な>勤めであり、生まれてから数年間の動物としての人間に刻みつけられる「家族内での」経験に一般的に結びついているが)、もし我々が人間としての人格と、ダーウィンの考えによれば人間がそこから進化したという「細胞」組織との間に思弁的な橋を架けるなら、今度はこの「個人的な」領域がそれ独自の「儀式の執行」を必要とするような「前歴史的な」領域へと移っていく。

 

 こうなると、文字通りすべてがジャングル状態である。我々にできる最善のことは、人間の動物性の背後に政治的な、言葉を使用し、道具を作る動物が存在するという「印象を与える」ために空想的で、疑似科学的な神話を提示するくらいであろう。人間の共同体における職務が、「より単純で」、「より低次の」生物学的形態からの動機づけの発達の痕跡をとどめた動物として考えられた人間の「自然な」共同体で上位にくることがどのようにして可能なのだろうか。

 

 まず始めに、快と不快の印象の間に元々ぼんやりした区別があったことが想像できるが、それは、なんの干渉もなく進んでいた代謝過程がなんらかの形で妨害されたり邪魔されたりしたときに生じた相違によって始まったのだろう。多分、この段階では、「自覚」の生じる条件としては、干渉なく進んだときより、妨害のある過程の方が可能性が大きいだろう。つまり、有機体はすべてがうまくいっているときよりは、なにかがうまくいかないときに自覚に近いという意味で、「苦痛」は「快」に「先行」する、あるいはより強いものだと言える。

 

 例えば、食事の後、すべて健康な者より消化不良の者の方が消化過程についてより明瞭に意識する。実際、幸福に消化できる有機体にとって、ものを食べた後のごく「自然な」反応とは眠りにつくことである。しかしながら、こうした「眠り」は「より高次の」意識の中心にのみ訪れるもので、消化過程に加わっている各細胞はいたく満足し、控えめながらも快楽に紅潮し、消化過程そのものの完成こそが、沼で活発に動き回る昆虫のように、細胞が精力的な「目覚めた」状態にあることを十分に証明している、と論じることもできる。

 

 いずれにしろ、快と苦痛のどちらを第一のものと考えるにしろ、或いは両者が最初から互いを含み合っていると考えるにしろ、我々の考えはこうである。即ち、快や苦となる一般的な「感情の調子」は、優性となった内的な働きから始まるものであり、その内在性は胎盤でのように環境との間に密接な相互的関係をもっているにしてもそうなのである(我々の身体は休息し、十分に栄養を取り、性的に満たされ、危険がなく、病気でもなく、水の近くにおり、麗らかな日ででもあれば最も満たされていることとなろう。※3)

 

*1

 

 こうした基本的な<快>は、後に「善」とされるものに対する「愛」の名で呼ばれるものと区別することができないだろう。

 

 恐らく、「快」と「愛」との相違は、美を「幸福への約束」と定義したスタンダールによって示唆されていよう。つまり、快は<正にいまあるところの>状態だが、愛は<欲望>の要素を含み、同一化しながらも離れているなにかとの合一の感覚を伴っている。有機体が快をもたらしうる環境と異なったものである限り、その代謝過程はある<必要>、いま経験しているなんらかの要素が多かれ少なかれ<外在的>であるという必要がある(いまこの瞬間に実際に入手可能である以上の食物、日蔭、暖かさを望む欲望を伴った)。

 

 脊椎動物が捕食し合い、性的に競い合うまでに生物学的な差異化が発達すると、将来の約束が複雑な状況を容易にすることもあり、現在の苦痛が将来の快のしるしともなれば、直接的な苦痛が快になることもあり得る。或いは、怒りが戦いに必要である限り、競争的な「愛」は「憎しみ」の萌芽を含んでいる。或いは、「愛」と結びつけて自然な「職務」と考えられがちな親の子供に対する世話は、凶暴に子供を守ろうとする傾向から見ると「憎しみ」に向っている。

 

 もし愛が戦いを経由して怒りや憎しみに向うなら、苦痛はより端的に恐れへと向う。アリストテレスは、怒りと恐れは相互に排除しあうものだが、苦痛がそうであるように、怖れは快に変わりうることを十分明らかにした。(例えば、『さかしま』のユイスマンは、恐れが快楽をもたらしうるものとなることで、催淫剤として働く倒錯した過程を描いている。「悲劇的快」と結びつく類の恐れについても忘れるべきではないだろう。)更に、怒りの完璧な行動上の対応物は攻撃であり、恐れの完璧な行動上の対応物は逃亡であるが、ある種の生物では、その中間的な状態、動かないことが探索を逃れる手段であり、防御として役立つこともあり得る。こうした条件は緊張病の生物学的な起源でもあり、条件は整っているのだが、「ごく自然に」食物を得るための運動が食物を更に遠くへ押しやってしまうような自滅的な状況においても引き起こされる。

 

 しかし、「緊張病」について語ることは、言葉のない有機体から言葉を使用する種への段階を追うのに役立つかもしれない。というのも、言葉そのものが、身体的行為には及ばない言葉による一撃と言葉による逃亡というある種の中間的な段階だからである。事物を名づける語とともに、我々は哲学者の観念や詩人のイメージによって与えられる存在を半ば有している。言葉は媒介的な領域であり、我々を言葉のない自然と結びつけるが、同時に、我々と言葉のない自然との間に立つものでもある。

 

 一度言葉が加わると(言葉を使用する能力をより称讃的な言葉で言うと「理性」となるだろうが)、快、苦痛、愛、憎しみ、恐れといった生物学的性質はすべて、人間の根深い言葉との関わりに色づけされて認められることになる。同じことは、あらゆる身体的な感覚についても真実であり、この余分で風変わりな次元が人間の自然な動物性に一度つけ加わるや、可能になった(そして不可避的な!)新たな動機づけの秩序によって影響を受けるのである。この観点からすると、人間の動機においてその性質が全く動物的であるものはなく、シンボリズムによって与えられたものと妨害されるものによって決まる全く新たな側面があらわれる。

 

 直截にこうも言える。一度我々が「受容」と「拒絶」に関わる諸問題に、特に言語的な本質をあらわす対である「然り」と「否」(それに戦略的な中間段階としての「多分」をつけ加えるべきかもしれない)を通じて取り組むと、快や苦痛、同様に愛と憎しみ(或いは怖れ)はもはや動物と同じ性質は持ち得ないのである。否定的なものとともに「良心」が生まれる(聖書の「汝・・・すべからず」という形式が証明しているように、良心は自己の深いところで自身に対して否と言う、或は同様に深いところで、他者の汝すべからずに対して否と言う力である)。

 

 同じことは我々の感覚一般についても(中立的な「記録」から快と苦の極端にまで及ぶ)、形象一般(中立的な注意から愛、憎しみ、恐れの極端にまで及ぶ)についても真であろう。こうした様々な身体的心的意識は「良心」(他に類を見ない言語的驚異である否定の特質)によって色づけられていよう。

 

 そして、「良心」の「肯定的な部分」が社会的行動に翻訳されると、様々なやり方で悪用されることも含む七つの職務となる。

 

 究極的な悪用は(或いは、より正確に言うと、どの時点で職務の善用が終わり、悪用が始まるのか我々には見定めがたいのだが)、多様な職務は<秩序>の規則性によってのみ可能になるという事実から生じる。そして、秩序に必要とされる諸条件を詳しく調べてみれば見るほど、秩序というものが<位階>(「低い」ところから「高い」ところに及ぶ権威の梯子であり、<職務の働き>はそれに対応する<社会的身分>を取る傾向にある)なしには不可能であることを発見することになるのは確かである。

 

 この意匠に対して親近感を感じるなら「位階」と呼ぶがいい。よそよそしさを感じるなら、「位階的精神病質」と、あるいはより端的に争奪戦と、更に単純にラット・レースと呼べば、帝国が積みかさねてきた諸条件が味気ないものとしてあらわされることとなる。

 

 それでは問題となっているところを要約しよう(七つの職務の観点から見て)。

 

 (1)世俗的教育の全般的目的は、象徴を使用する動物であるとはどういうことなのか発見することにあろう(それが教育の「大」目的だろう)。

 

 (2)歴史のこの段階における基本的な教育の問題はこうである。テクノロジーの抵抗することのできない「進歩」によって我々に強いられることとなった世界帝国の諸条件に対して、象徴を使用する動物はどう適応していけば最上なのだろうか。(これが教育の「世界的」目的だろう。)

 

 (3)最後に、どちらの問題から始めたとしても、個人的な不安のよくある源を位置づけようとすると、数歩も進まぬうちに、人間の「職務」のピラミッド的、階段状の秩序の反映である「位階的精神病質」(或いはラット・レース)に対する新ストア派的な考察に向うこととなる。

*1:※3より完全にするために、遺産の約束を取りつけたとき、とつけ加えておこう。